16.大きな亀裂

 ライラスは憂鬱な気分で廊下を歩いていた。
 つい今しがた遭遇した出来事が彼の気持ちを暗くさせている。
 廊下で魔法科の生徒とすれ違った時、工具を持っていたライラスを見た相手に道を開けろと言われたのだ。
 馬鹿にしたようなその口調に面食らっていると肩を押され、持っていた工具の幾つかを落としてしまった。それをまた笑われて、ライラスは慌てて工具を拾い、逃げ出すようにその場を去ってきた。

 最近の魔法学部ではこんな事が良くあり、魔技科の生徒にとって居心地悪い事この上ない。
 前からなかったとは言えないが最近は特にひどい気がする。
 この事態の原因は恐らく、最近ずっと魔法学部に流れている噂に違いないと思われた。
 内容はもちろん、野外実習に付いて行った人数合わせの魔技科の生徒がひどい足手まといで迷惑をかけた、という奴だ。
 結局他のメンバーのがんばりで課題は達成したものの、達成できたからこそ足手まといだった人間に抜けてくれと言えずにメンバー達は困っているという。
 役に立たない足手まといだったくせに、空気も読めないなんて、と非難の声は多いらしい。

 実習などの班編成を巡る大小様々ないざこざは季節になればいつだってどこかで起こる類のもので、ある意味当たり前の出来事だ。
 なのに今回は何故だかその噂が大きく広がり、しかも噂の渦中の人物達が実に目立つメンバーだったこともあり、未だに消える気配もない。
 だからその目立つ彼らのファンとも言える生徒達が、魔技科に向かって同じ科なら元凶の少女に忠告すべきだろうと有形無形の圧力をかけてくるのだ。
 魔技科の生徒達は、その圧力の中心となっている横暴な魔法科の人間にも、同じ科でありながら誰とも交流のない少女にも、どう出るべきか分からず誰もが困り果てている。

(こんなんじゃ何か面倒が起きるよな、きっと……)
 渦中の少女の事も知っているし、会話を交わした事もあるライラスは何か言ってやるべきなのかどうか迷っていた。
 夏期休暇中に会った時、もっとちゃんと忠告すべきだったかと少し後悔もしている。
 ライラスは暗い気分を消せないまま、展示室と書かれた目的の教室に辿り着いた。

 この部屋には、夏期休暇の課題として提出した生徒自作の魔具が展示されている。今日はその引取り日だった。
 自分で作って提出した工具セットをやっと引き取れる日が来てライラスはほっとしていた。せっかく良く出来たと思ったのにしばらく使えないのは残念で、ずっとこの日を待っていたのだ。
 キィ、と音を立てて扉を開くと、同じように自分の作品を取りに来た生徒達が部屋の中にいるのが目に入った。
 だがその数人の生徒達は何故か一箇所に集まり、ライラスの出現に驚いたように扉の方を見た。
 一斉に視線を向けられ、ライラスの方が思わずたじろいでしまった。

「なんだよ、何して……」
 ライラスはクラスメイト達に声をかけようと思ったが、彼らの一人がさっと後ろ手に隠した物に気付いて目を見張った。

「お前ら、それ……グラウルの作った奴だろ」
「……」
 彼らが後ろに隠した飾り気のない小さな箱はアーシャが作って提出した物に間違いない。護符の消耗を減らすというそれを、売れそうだなと思いながらライラスは良く見ていたのだ。
 ライラスは彼らを思わず睨みつけた。
 彼らの顔を良く見れば、クラスメイトもそうじゃない生徒も混ざっている。全員が魔技科なのは間違い無さそうだったが他のクラスの生徒までいる事にライラスは少し驚いた。

「お前ら、それどうするつもりなんだよ」
 彼らは何も答えず顔を逸らした。
 ライラスは何故だか無性に腹が立って足音も荒く彼らに近づいた。

「みっともない真似すんなよ! お前らだって、自分が作ったもんに変な真似されたら嫌だろ!?」
「じゃあ私達が毎日嫌な思いしてるのは良いって言うの!?」
 後ろ手に小さな箱を隠した少女が叫ぶように言った。
 彼女はライラスと同じクラスの、割と成績の良い部類の生徒だ。
 大人しい人間の多い魔技クラスの中では明るくて、結構目立っていた。

「あの子が悪いんじゃない! あの子が身の程知らずな事して、何でそれで私達が嫌な思いしなきゃいけないのよ!」
 そうだそうだ、と賛成する声が周囲の人間から上がる。だがライラスは首を横に振った。

「だからって、お前らがしようとしてる事は違うだろ!? 噂が本当かなんてわかんないし、そんな事して何か解決するのかよ!」
「噂が嘘だって言う証拠だってないじゃない!」
 ライラスは少女が隠している小箱を取ろうとしたが、周りの生徒に阻まれて果たせなかった。
 少女は箱を持ったままライラスから遠ざかり、それを高く掲げた。

「魔技科の生徒なら魔技科の人間と付き合えば良いのよ! そしたら誰にも迷惑をかけないし、私達だって付き合ってあげても良いのに!」

「別に付き合ってもらわなくて良いよ」

 唐突に響いた静かな声に誰もが一瞬凍りつき、そして声のした方を見た。
 いつの間にか入り口の扉に、小柄な少女が寄りかかって立っていた。
 ライラスはアーシャとクラスメイトの少女を交互に見やり、そのタイミングの悪さというか良さというかに頭を抱えたい気持ちになる。今彼女が現れても、火に油を注ぐ事になる気しかしない。
 そんなライラスの心配を余所に、アーシャは部屋の中をくるりと見回すとため息を一つ吐いた。

「はぁ……ほんと面倒くさい」
 アーシャが小さく呟いた言葉は、小箱を持った少女の萎みかけた怒りに早速たっぷりと油を注いだ。
「面倒くさいって何よ! あんたね、成績の良い人達とチーム組んだからっていい気になってるんじゃないわよ!」
 激昂した少女の声に賛同した他の生徒達も、口々にアーシャに憤りをぶつけた。

「そうよ、本当は足手まといだったんじゃないかって周り皆そう言ってるじゃない!」
「大体精霊魔法使えるって本当なのか? 怪しいもんだよな」
「そうよね、だったら魔法科に行けばいいじゃない」

「やめろよお前ら!」
 ライラスは思わず叫んだが、クラスメイト達は非難をやめようとはしなかった。
 責められているアーシャはと言えば、表情一つ動かさずそれらを黙って聞いた後、ふぁ、と小さな欠伸をした。
 あまりに場違いな呑気な様子にライラスも周りも思わず口を開いたまま動きを止める。
 アーシャは退屈そうに彼らを見回すと、小さく肩をすくめた。

「……ほんとに、魔技科の人達って揃いも揃って、《魔法科の落ちこぼれ》 なんだね」
「なっ!」
 少女の辛辣な言葉に誰もが顔色を変えた。だがアーシャはそんな事は意に介さず言葉を続ける。

「何で魔技科だって誇れないのか、私にはそっちの方がわからないよ。何で魔法科に対してそんなに卑屈になるの? どうして魔法が沢山使えると魔技科を選んじゃ駄目なの? どうして魔法科の人と仲良くしちゃだめなの?」
 アーシャはそう問いかけながら部屋の中に飾られた生徒達の作品を眺めた。
 並べられた品々の中には良く出来た物もあればそうでない物もある。
 懸命に作られた思いのこもった物もあれば、嫌々作られた投げやりな物もある。

「魔法科の人間だって理解できない。魔技師が作った杖を持って、ローブを着て、護符を着けて、それでどうして魔技師を馬鹿にするのかな」
 知ってる? と少女はライラスの方を見て聞いた。
 ライラスは小さく首を振った。
 その場の誰もが少女の疑問に答えられなかった。彼女の問いは彼らの中に燻っていた様々な思いをじわじわと顕わにしてしまう。

「そ、そんな事どうでもいいのよ! 私達があんたのせいで迷惑してるのは確かなんだから!」
「あっ! おい、やめろ!」
 ライラスが止める間もなく、小箱を手に持ったままだった少女はそれを高く振り上げた。
 次の瞬間、ガシャン、と固い音を立てて箱は床に叩きつけられ、破片が辺りに飛び散った。
 蝶番が弾け飛び、ふたが割れてそこに嵌っていた透明な石が外れてころころと転がる。
 アーシャはそれを無感動に見つめると、足元まで転がってきた石をひょいと拾い上げた。
 光に透かして石の状態を確かめる。傷は付いていなかったのでアーシャは黙ってそれをポケットに入れた。

 これはアーシャがシャルの誕生日に贈った物の試作品だった。
 完成品よりは若干劣るが、そこそこの出来に仕上がったので休暇の課題として提出したのだ。
 作った物はいつか壊れる。どんなものにも永遠などはありえない。
 それが解かっているから壊れた事に対して特に何も思わないけれど、ほんの少しだけ悲しい気がした。
 アーシャはまたため息を吐いて、望みを果たしたのに固い顔をしている少女の方を見た。

「結局、私に何を望むの?」
「そ……そんなの、決まってるじゃない。あんたがあの三人の班を抜ければいいのよ。そうしたらもう周りだって何も言わないわ!」
「そう……」
 アーシャはその答えに小さく呟くと、何か考えるように首を傾ける。
 それからもう一度彼らに向き直り、小さく息を吸うと言い放った。

「やだ」
 べぇ、と舌を出すとアーシャはすっと踵を返した。
 その言葉の意味を誰もが捉えそこね、硬直している間にアーシャは用は済んだとばかりにするりとドアの向こうに姿を消す。
 我に返ったライラスは慌てて後を追うべく廊下へと飛び出した。
 背後からは同じように我に返ったらしいクラスメイトの怒りの声が聞こえてきたが全て無視して辺りを見回す。
 見れば足の速い少女はもう廊下の角へと差し掛かっていた。
 ライラスは慌ててその後を追って走り出した。




 アーシャは足早に一階まで行き、近くの窓を開けるとそこからひょい、と外に出た。
 纏わりつく空気が気持ちが悪い気がして早く外に出たかったのだ。
 無性に森に行きたい気分に駆られながら、アーシャは少しでも緑のある所へ行こうと、足を中庭へと向けた。

「おい、待てって!」
 その声に後ろを見ると、少年が一人、アーシャの出てきた窓から慌てて降りてくるところだった。
 さっきあの場に居た顔だと気づいたアーシャは多少警戒しつつも歩を弛めた。
 茶色の髪と水色の瞳という見覚えのあるこの色合いは、レイアルで会って忠告をくれた人物だと一応アーシャにも分かっていたのだ。しかし相変わらず少女に彼の名前が思い出せない。
 アーシャは多少の努力はしてみようと懸命に己の記憶を漁りながら、彼が追い付いてくるのをその場で待った。

「はぁ、お前足速いな……」
 少年はアーシャの前まで来ると荒く息を吐いた。
 アーシャはそれには応えずぶつぶつと小さく呟く。

「……ラ……マ? んーと、バルド?」
「ライラスだよ、ライラス! 何でバルドしか覚えてないんだ!」
「良い工房の名前は覚える」
 ライラスはその場にガクリと膝を着いた。
 なんだか何かにすごく負けたような気持ちになったのだが、アーシャはそんな彼の悲嘆は無視して問いを投げた。

「何か用?」
「あー、用っつーか、その、ごめんな。さっきの、止められなくて……」
「別にライラスのせいじゃないから気にしなくていいよ」
「けど、作った物壊されたら、やっぱ悔しいだろ」
「物はいずれ壊れる。次はもっと良い物を作るよ。叩きつけても壊れないようなのを」
 少女の答えにライラスは目を見張った。
「そっか……お前、やっぱ強いなぁ」
 ライラスは立ち上がって服の汚れを軽く叩くと、近くにあったベンチにアーシャを誘った。
 ベンチに腰を下ろした二人はしばらく黙ったままだった。
 アーシャは彼があの場で自分を庇おうとしていた事を思い返し、その意味を考えながら口を開いた。

「……聞いていい? レイアルで言った嫌な事ってのは、つまりはああいう事?」
「ん、ああ……憶えてたのか。まぁ、そうだな、もうちょっと大人しいかと思ったんだけどな。似たようなもんだな」
「そう……じゃあ、ライラスは経験者?」
「え?」
 アーシャは真っ直ぐな目をひたとライラスに向けた。

「そういう風に見えた。私よりライラスの方が辛そうな顔してた」
「お前が変化なさ過ぎなんじゃないのか……」
 ライラスは呆れたように呟いたが、確かに少女の言った事は事実だった。
 彼はため息を吐いてしばし俯き、それからゆっくりと、あの時語らなかった話をポツリポツリと始めた。





「俺に限らず、魔技科ではまぁ、よくある話なんだけどさ……。
 俺さ、基礎学部からここに通ってんだけどよ、すげー仲の良い友達っていうか、親友がいたんだよ」
「……いた?」
「や、いや、えーと、今でもそいつは魔法科にいる……けどな。フランツって言うんだ」
 うん、とアーシャは頷いて先を促した。

「ちょっと大人しいんだけど、気の優しい良い奴で、俺達は何するにも一緒で。フランツは補助系とか回復の魔法が得意でさ、その分野では結構成績が良かった。だから、上級に上がる時に、あいつは魔法科を、俺は希望通り魔技科を選んだんだ」
 科が別れても、ずっと二人の仲は続くとライラスは思っていた。
 あの頃は、まだそう思っていた。

「俺はいつか立派な魔技師になって、お前の力になるようなすごい杖作ってやるって約束してて。科が違ってもしょっちゅう一緒につるんでたんだ……けど」
 そのきっかけが何だったのか、ライラスは未だに本当の所を知らない。
 ただ、彼が違和感を感じるのに時間は掛からなかった。
 ライラスがいつものように魔法科の友人の所へ行った時、周りから馬鹿にするような笑いが漏れたとか。
 会いに行くと笑顔を見せた友人が少しずつ笑わなくなったとか。

「あいつ、攻撃魔法が苦手で……そのせいで馬鹿にされたみたいなんだ。
 それで、魔技科の人間なんかと付き合ってるから、成績が下がるんだとか、お前も魔技科に言った方が良いんじゃないのかとか言われたらしくてさ」
 それでもフランツはそれをライラスに言わなかった。
 人伝にそれを聞いたライラスもまた、どうしていいのか分からなかった。
 彼を訪ねる回数を減らした方が良いのかと考えていた頃、ライラスもクラスメイトに言われたのだ。

『お前さ、なんで魔法科の人間と仲良くすんの? 仲良くしたいならあっちに行けばいいじゃん』
『相手だってもう迷惑に思ってるかもしれないよね』



「……なんか、そういう事言われて、すげーやな気分でさ。
 俺と付き合ってる事であいつはずっとこんな嫌な思いして我慢してるのかって思ったら、なんかもう駄目だって思ったんだ。それで……」
「それでやめたんだ、友達」
「……やめたつもりはないけど、ただ、しばらく会うのをやめようって言った。あいつは、平気だって何度も言ったけど」
 それっきり、もうライラスはフランツと一年以上まともに会話もしていない。
 時々彼の姿を見かける事はあったけれど声をかけたことはない。

「……それでいいんだ?」
「……良いなんて思ってない! けど、そうじゃなきゃあいつが嫌な思いするから……」
「自分じゃなくて?」
 ライラスはきつく唇を噛んだ。
 少女のその言葉が音を立てて胸に刺さったような気がした。
 そういう気がしたこと自体、それは一つの答えであるに違いないのだ。

「……そうだよ。俺は……嫌なんだよ! もうあんな思いするのは嫌だ!
 あんな思いを親友にさせるのも嫌だ! お前だって、嫌だろう、さっきみたいなの!?」
 だがアーシャはその言葉に静かに首を横に振った。

「私は嫌な思いをしたりしないって前に言った」
「そんなのはただの強がりだろ!? 実際は嫌じゃないのかよ!」
 アーシャは少し考え、もう一度首を横に振る。

「私、別に他人に何かを期待したりしないから。優しい言葉も、穏やかな態度も」
「……期待?」
「そうじゃないの? 他人から思いもしなかった悪意を投げられるから、傷つくんでしょ?
 それって、相手に普通の対応とか、期待してるってことじゃないの?」
 そんな風に考えたことがなくて、ライラスは困惑を顔に浮かべた。そもそも日常生活の中で、普通の対応を相手に期待するなというのは無理な話だ。

「心無い言葉を投げられれば傷つくっていうのは、分かる。
 でも、最初っから、相手に何も求めなければそれはないのと同じ。
 人を簡単に信用してはいけないっていう前提で、他人に対する時は心を閉じていれば棘は奥までは届かない」
 アーシャは知らない人間に不用意に近寄ったりしないし、近寄る時は周囲の精霊の声の方に耳を傾ける。危険な人間には近寄らない。普通の人間にも油断はしない。
 自分が弱い事を知っているから、アーシャはいつもそういう選択をしてきた。
 一見穏やかそうに見えても、それが他人である限り過度な油断も期待もしないようにしてその身や心を守るのだ。 それはもう半ば彼女の習性のようなものになっている。

「なんか……それって、寂しくねぇ?」
「そうかもしれないね。でも、私が一人で生きていくにはそのくらいはしないとだから。それで損をする事があっても、独りになっても仕方ないよ。私は弱いから……小さい生き物は、用心深くないとすぐに死ぬもの」
「死ぬって……」
 ライラスは呆れた声を上げた。この少女が一体どんな環境で生きてきたのか少年には想像も付かない。

 アーシャの心の奥には常に人に対する恐れや警戒心がある。己の心を守るために、少女は人に対してはいつもその扉を閉じている。
 だから、嫌なことも楽しい事も、アーシャにとっては心の表面にごくわずかな小波が立つようなものだ。
 アーシャはいつもどこか一歩引いた奥から、その波を眺めている。
 嫌な波なら受け流すし、楽しい波なら少しだけ笑う。

「だから、私はずるいかもしれないね。ライラスの気持ちは本当にはわからないから」
「そんな……けど、じゃあ楽しい事や嬉しい事もあんまりそう感じないって事か?」
「……前はそうだったけど、最近は感じるようになってきたよ。皆が、私に教えてくれたから。皆といる時は、心を閉じなくてもいいから。……だから、私はあそこに居たい」
 アーシャはそう言って空を仰いだ。秋の空は高く、美しい色をしている。

「でも、普通の人がそうじゃないって言うことは分かる。
 私が嫌な思いをしなくてもシャル達はするかもしれないっていうのもわかる。
 もしそうなった時、私はその痛みが本当にはわからないかもしれないっていう事も、それがずるいって言う事も。
 でも……皆は、きっとそんな事に負けないから。負けないって信じてるから」

 今はもう彼らを信じられるから。

「だから、私も負けないの。それだけ」
 アーシャはそう言ってライラスを見た。少女の目には迷いも恐れもない。
 ライラスは、その瞳に映る自分の姿を見ていられなくて目を逸らした。
 あの時、友人を信じられなかったのは自分だ。
 彼もきっと負けてしまうと思ったのだ。そして自分も負けてしまった。

「俺が、あの時信じられてたら……何か変わってたと思うか?」
「……さぁ。でも、多分ね」
 アーシャはライラスの心中を知ってか知らずかそう言って頷いた。
 ライラスが少女に視線を戻すと、その目はやっぱり真っ直ぐに彼を見ていて、それだけでライラスは少し背中を押されたような気持ちになった。

「でも、今からでも遅くないと思うよ」
「そうかな……でも、俺だけじゃないからな……そういうの。
 魔法科を諦めて魔技科に移ってきて、前の友人との間にそういうトラブルがあったっていう連中なんて後を絶たないしな。実際魔法科には、昨日までの友人を手の平返したように馬鹿にする奴らもいたりするんだ」
「魔技科の人がもっと毅然としてればそんなのなくなるんじゃないの?」
 アーシャの真っ直ぐな言葉にライラスは苦笑して首を横に振った。

「そう簡単にいきゃいいけどさ……。
 俺は最初からこの道を決めてきたけど、実際はそうじゃない奴の方が多いんだ。
 魔法科目指してた奴は挫折して魔技科に来てるから……どうしたって自分に自信が持てなくてああなっちまうんだよ。
 自分が一度は夢見た道を歩いてる奴らを真っ直ぐに見られないんだよな」
 だからといって卑屈になったり、魔法科に友人を持つ人間を責めるのは間違っているとライラスも判っている。
 けれど彼らはそうしなければ自分を保てないのだ。


「そっか……私、そういうのわかんないからひどい事言ったかな。でも、魔技科の生徒達にまで、魔技師を馬鹿にされたままっていうの、ちょっと嫌だな」
「……うん、そうだよな」
「そういう変な風潮を崩す方法が何かないか、考えてみるよ」
 アーシャはそう言うとすっと立ち上がって中庭を歩き出した。
 ライラスは少女ともう少し話がしたいと思って立ち上がったが、次の瞬間目を見開いた。

「危ないっ!」
「え?」
 アーシャはその声に振り向いたと同時にドン、と勢いよく突き飛ばされた。次の瞬間、辺りに激しい水音が響き渡る。
 その音に意識を向ける間もなく少女の軽い体はたやすく飛ばされ、ドサ、と地面に落ちた。

「いたた……って、ライラス!?」
 起き上がったアーシャの目に入ったのは、ずぶ濡れになって地面に座り込むライラスの姿だった。
 ハッと気付いて上を見ると、三階の窓にちらりと人影が見えた。一瞬しか見えなかったが、その後姿は褐色の髪を揺らしていた気がした。

「うへぇ……参ったな」
 ライラスは水を吸って重たくなったローブを摘み、ゆっくりと立ち上がって困ったように笑った。
「ちょっと待ってね」
 アーシャは慌てて近くに駆け寄り、周囲に居た水の精霊を呼んだ。
「余分な水を集めて」
 アーシャが願うと精霊達はライラスの衣服や髪を濡らす余分な水分を吸いだして一つに集めた。
 アーシャが差し出した手の平の上に水が少しずつ溜まり、大きな球になっていく。

「こんなもんかな」
「すげぇ、乾いた……お前ホントに精霊魔法使えるんだなぁ」
 ライラスは初めて見たアーシャの精霊魔法にしきりに感心している。
 少女はそれには構わず、手にした水球をぽいと投げ捨てた。水は近くの植木に当たって弾け地面へと吸い込まれていった。

「ごめん、泥が付いちゃったね……庇ってくれてありがとう」
 アーシャの謝罪と礼にライラスは笑顔で首を振った。
「いいって。お前に掛かんなくて良かったよ」
 ライラスは不思議と、さっきよりも晴れやかな気分だった。
 少女の作品は守ってやることが出来なかったが、今度はどうにか助けてやれたからかもしれない。
 けれど反対にアーシャはむっとしたような顔を浮かべて三階の窓を見上げていた。

「今のは、ちょっと許せないかな……」
 アーシャは上を見上げたまましばらく考えた。この事態を打開する方法を頭の中で色々と模索する。
 やがてアーシャは何かを思いついたのか一つ頷くと、ライラスに視線を戻して彼の腕を掴んだ。

「ね、来て。良かったら、少し協力して欲しい事があるんだ」
「え? おい、ちょっと!」
 ライラスの返事を待たずにアーシャは彼の腕を掴んだまま走り出す。
 放課後の中庭を少女に引きずられて走る少年の姿を、庭の植木だけが眺めていた。
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