一月の森の春
8
 更にその二日後、ユーグは約束通り新聞と空瓶を持ってエリアーヌを訪ねてきた。
「こんにちは、エリアーヌ。今日は白いローブなんだね。そんな姿をしているとまるで雪の精霊みたいだ」
「……こんにちは」
「黒も魔女らしくてミステリアスな魅力があるし、君の銀の髪を引き立ててとても素敵だけれどね。どっちも捨てがたいなぁ」
 目の前の男を森の外に捨ててしまいたい衝動を堪えながら、エリアーヌは黙って水の瓶の詰まった箱を指し示した。
 ユーグは二つ並んだ木箱の蓋を少し持ち上げて中を確かめ、その中身の瓶の全てにきちんと水が入っている事に目を見開いた。
「これ全部に水を入れてくれたのかい? この前の倍だったのに」
「それが私の引き受けた仕事よ。気にしないで」
 きっぱりと言われて、ユーグは何か言いたそうな表情を一瞬浮かべたが、すぐにまた笑顔を見せた。
「ありがとう……お金の件も、オロフがすごく申し訳ながっていたよ」
「気にしないでと伝えておいてちょうだい」
 
 エリアーヌは素っ気無い態度のまま、用があるので運び終ったら呼んでくれとだけ言い残して家の中へと戻っていった。
 ユーグはその背を見送った後、少し困ったような顔をしながら木箱に手をかけ、外に運び始めた。
 玄関にいて一部始終を見ていたドニはそんな二人の様子に、困ったものだと耳を伏せた。
 ユーグがおかしな口説き文句を重ねる度にエリアーヌの態度はどんどん硬化していっている。
 ただでさえ主は若くて綺麗な女性だというのに、お洒落もしなければ付き合っている男がいる訳でもなく、森に引きこもって外にも出ないのだ。
 このままではますますその傾向に拍車がかかるのではないかと思うとドニは心配だった。
 
 ドニは玄関の木箱の傍に座ったまましばし考え込んでいたが、やがて空瓶の入った木箱を手にユーグが戻ってきた時何かを決意するように顔を上げた。
 ユーグはそんなドニの様子には気付かぬまま、空瓶の入った箱をそっと床に下ろすと中身の入った二つ目の木箱をぐっと持ち上げた。
 彼が歩き出すとそれに合わせるように木箱から水の揺れる音と、ガラス瓶が軽く触れ合う音がする。
 ドニはそれを聞きながら、森の入り口への道へと向かうユーグのすぐ後ろについて歩き出した。
 さくさくと雪を踏む軽い音が自分の後をついて来た事にユーグはすぐに気付いて振り返った。
「あれ、どうしたんだいワン公。見張りかい?」
 ドニはそれには応えず黙って彼のの後ろを歩く。
 ユーグは不思議そうに首を傾げたが、ドニに答えを期待せずそのまま森の中の道に向かって一歩を踏み出した。
 するとその姿がゆらりと歪む。
 ドニもまた森の入り口を頭に思い浮かべながら道へ一歩踏み出した。
 一人と一匹を囲む周りの景色がぐにゃりと歪み、世界が回ったような心地がする。
 目の前を歩くユーグはいささか心もとない足取りで、慎重に何歩かめを踏み出した。
「おっとと」
 よろめいた足が地に着いた途端に辺りの景色の歪みは嘘のように収まり、見回せば周囲は見慣れた森の入り口だ。
 森中を白く包んでいた雪も流石にこの辺りでは量を減らしている。
 ドニはフンフンと辺りの匂いを嗅ぎ、暖かい空気をしばし楽しんだ。
 少し離れた所にはユーグが止めてきた馬車が置いてあり、繋がれた馬が突然現れた彼らを幾分不審そうに眺めていた。
 
「……慣れないなぁ」
 ユーグはそうぽつりと呟くと、己の左手首に着けた銀の細い輪を見下ろした。
 この<番人の鍵>をユーグが使うのはもう三度目になるのだが、未だに彼はこの現象に慣れる気がしなかった。
 どうにか木箱を落としたりする事はないものの、移動した後にはやはり戸惑いが残る。
 ふぅ、とため息を一つ吐いて、ユーグは馬車へと木箱を運んだ。
 ドニは独り言を呟きながら馬車の荷台へと向かうユーグにそっと近づき、彼が木箱から手を離すのを待って声をかけた。
 
「あの」
「え?」
 後ろから突然呼ばれ、ユーグは辺りを見回した。しかし自分の背後には誰の姿もない。
 首を捻っているともう一度声がした。
「あの、僕です。ユーグさん」
 自分の視線より下方から聞こえた声に、ユーグは弾かれたように下を向いた。
 そこには自分の後を着いて来ていた魔女の飼い犬が行儀良く座っていた。
「……まさか、ワン公? いや、その……今のは、ひょっとして君かい?」
 首を傾げるユーグに、ドニはこくんと頷いた。
「そうです。驚かせてすいません」
「いや……そうか、そうだよな。魔女の飼う犬、なんだもんな。君はペットじゃなくて使い魔だったのか」
「はい。僕は主であるエリアーヌ様の使い魔で、ドニと言います」
「あ、こりゃ丁寧にどうも……犬の使い魔って言うのは珍しいなぁ。大抵は猫や梟だと思っていたよ。気付かなくてごめんよ」

 流石に彼も魔法の徒を相手に商売している店で働いているだけの事はあるらしい。
 ユーグはすぐに驚きから立ち直ると、ペットだと思っていたことをドニに素直に詫びた。その様子からもドニはユーグに好感を抱いた。
「いえ、それはいいんです。実際犬を使い魔にする人は少ないって僕も聞いてますから」
「うん、俺はあんまり魔法の事は詳しくないけど、滅多に見ないのは確かだなぁ。理由までは知らないけど……」
「犬は性格的にも使い魔にする魔法を掛ける素体としても、あまり向いていないらしいです。僕は半分狼が入っているので珍しいのだとか」
 へぇ、と感心した風にユーグは何度も頷いた。
 彼は白いむくむくとしたドニの姿を、ぴんととがった耳からふっくらした尻尾まで眺め下ろし、にこやかな笑顔を浮かべた。
 
「なるほどなぁ。狼なら寒さにも強そうだし、君の毛皮は全くこの森向きだな。こんなところまで出てきて、暑くないかい?」
「この辺までなら大丈夫です。僕は貴方のように毛皮を脱ぐわけにいかないから、夏場は主と同じでこれ以上外には出ませんが」
 ドニの言葉にユーグはまた頷くと、今度は少し真面目な顔を浮かべた。
「それで、その君がわざわざここまで俺を追いかけてきたって事は、何か大事な話でも?」
「あ、はい。ええと……」
 ドニの中に少しばかり生まれた迷いが言葉を濁させる。
 こうして話をしてみると、ユーグはやはり良い人間のように思われた。
 人ではない使い魔に対しても丁寧な態度をとってくれるし、人の話を聞く気持ちも持っているように思える。
 エリアーヌがこれ以上気を悪くしないように少し彼に釘を刺しておこうと後を追ってきたのだが、あまり直接的に文句を言うほどのことでもなかったかと思い直す。
 ドニは言葉を選びながら、使い魔が口を開くのを生真面目に待っているユーグに視線を向けた。
 
「えーと、その、貴方が毎回来る度に、マスターの機嫌が悪くなるの、気付いてますか?」
 おずおずと切り出されたドニの言葉にユーグは目を見開き、それから少々ばつの悪そうな顔を浮かべた。
「ははぁ、そのことか。そりゃあ、その、うん。気付いてるんだけど……もしかして、八つ当たりされたりしたのかな?」
「いいえ! マスターはそんな事したりしません! ただ、その……マスターが機嫌を悪くする理由がはっきりしているので、ちょっと気をつけてもらえたらなって思って」
「理由?」
 理由がある、という言葉を聞いてユーグは思わず身を乗り出した。
 その様子を見ると彼はこの話をちゃんと聞く気があるらしい。
 しゃがみこんでと視線を合わせてくれたユーグに、ドニは少しほっとしながら顔を寄せた。

「問題は……その、貴方がマスターと顔を合わせる度に口にする、軽い口説き文句にあるんじゃないかと僕は見てるんです」
「へ?」
「貴方にとってはあれは単なる営業用の言葉なのかもしれませんが、マスターは多分そういう事自体が嫌いなんじゃないかと思うんです」 
 ユーグはドニの言葉を聞きながらしばし考え込んだ。
 今までの己の言動を思い返すと、確かに頷けるところがある、とユーグは気づいた。エリアーヌの態度が硬くなるのは、決まって彼との軽い挨拶や会話の中でだったからだ。
「つまりその、俺が彼女に綺麗だとか美人だって言っていたのが良くなかったって事かな?」
「はい。多分」

 頷いたドニにユーグは困ったような顔をした。
「そっか、参ったなぁ……別に軽い気持ちで言ったんじゃなくて、本当にそう思ったから口にしただけなんだけど」
「商売相手のおじさん達も良くマスターにそういう事を言いますが、大抵は皆家庭持ちです。だからマスターも彼らの場合はただの商売上の口上だってわかってるんですが、貴方はどうもその、かなり軽薄に見えるようで……」
「確かに俺は家庭は持ってないし、雇われ人で、直接彼女と商売する人間じゃないからなぁ。じゃあ俺は彼女に、必要もないのに軽口をたたく軟派な男って思われてる訳か」
 その通りと言わんばかりにドニはこくこくと頷いた。
「マスターは口の上手い軽薄な若い男が嫌いなんです。そういう人に限って森の仕来りを守らず、良くトラブルを起こすので。……だから貴方がどういうつもりであれ、褒め言葉を口にする度にマスターの機嫌が悪くなるは確実なので、できれば少し控えて欲しいんです」
 
 ユーグは率直な使い魔の意見に苦笑いを浮かべた。
 使い魔は普通己の主人の事しか考えない生き物だ。それを考えれば彼の意見はもっともであり、そして同時に随分と彼にも気を使ってくれているとも言える。
 オロフの店を訪れる魔法使い達が良く連れている梟や猫達の気まぐれさと我侭さを見慣れたユーグには、主以外にも気遣いを見せるこの犬の使い魔がとても新鮮だった。
 ふわふわした尻尾をしょんぼりと垂らした姿を見ていると、何だか無性に彼の力になってやりたくなってくる。
「わかった。もうエリアーヌさんを怒らせるようにしないよう、努力するよ」
「ほんとですか? ありがとうございます!」
 途端にパタパタと動き出した尻尾がまた愛らしい。ユーグはそれを見て思わず笑みを浮かべた。
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