一月の森の春
 7
 ユーグ・アルトーが再び森を訪れたのは、約束通りエリアーヌが水を汲んだその翌日の昼過ぎだった。
 礼儀正しくノッカーを叩く音にエリアーヌはため息を吐いて読んでいた本を置いて席を立った。
 コツコツと控えめに叩かれるドアを開くと、そこにあったのは一昨日会ったのと同じ、にこやかな明るい笑顔だった。
「こんにちは、エリアーヌ! いやぁ、今日も相変わらず綺麗だ」
「……こんにちは」
 エリアーヌは最後の言葉を無視して素っ気無く挨拶を交わすと、彼が差し出した手には気付かなかったフリをして、一歩屋内へ下がり、扉の内側の脇に置いてあった大きな木箱を指し示した。
 それはいかにもさっさと用事を済ませて帰れと言わんばかりの態度だった。

「約束通り水は汲んでおきました。全ての瓶をいっぱいにしたから、結構重たいわ」
「ありがとう。それじゃ、さっそく運んでいいかな?」
「どうぞ」
 握手をかわされた事は気にならないらしいユーグは、エリアーヌに断ると室内に静かに入り引き締まった腕で木箱を軽々と持ち上げた。
 エリアーヌは軽く目を見開いて、彼の体格が見かけだけではない事に少しだけ感心した。
 箱の中には水がいっぱいに詰まった瓶が三十本以上入っている。
 木箱自体だって大きいのだから軽くはない。
 エリアーヌが自分でそれを動かそうとした時は、空の瓶の詰まった箱を家の中の邪魔にならない場所まで引きずるのが精一杯だった。
 男女の力の違いはあれど、自分はそんなに非力なのかと彼女は少しため息を吐きたくなった。
 
 そんなエリアーヌの心中も知らず、ユーグは木箱を外の雪の上にひょいと置き、ここに来る時に持ってきた空の瓶の詰まった箱を家の中にかわりに運び込んだ。
「あ、そうだ。オロフに言われて今日はニ箱、空の瓶を持ってきたんだ。もう一つ取ってくるから、待っていて貰えるかな?」
「ニ箱も?」
「ああ。多くて申し訳ないが、水を汲む事が出来る分だけ入れて貰えればいいって事なんだけど」
「仕方ないわね……わかったわ。持ってきて」
「ありがとう、すぐに持ってくるよ」
 ユーグはにこやかな笑顔を浮かべたまま、雪の上の木箱を持って来た道を戻っていった。
 家の前から森へと続く道を数歩踏み出すと、途端に彼の姿がぐにゃりと歪んで消える。
 貸し与えた鍵がその役目をちゃんと果たしている事をその目で確かめると、エリアーヌは面白くなさそうに足元の木箱を見つめた。
「急に二箱だなんて……そんなに切羽詰っているって事かしら?」
「気になりますね。ぼく、街まで行って新聞でも買ってきましょうか?」
 心配そうに主を見上げるドニがそう提案したが、エリアーヌは首を横に振った。
「そんな毛皮を着込んで外に出たら貴方の方が倒れてしまうわ。それに、流行り病は人を不安にさせるから、新聞にはあまり正確な事は書いていないかもしれないし」
 
 ドニは自分の白い毛皮に包まれた体を見下ろして犬らしくなくため息を吐いた。
 確かにこればかりは脱ぐ事もできないからどうしようもない。
 この森で育った己が主と同じく暑さにすこぶる弱い事を、ドニもまた自覚していた。
 少しなら我慢できないこともないだろうが、今年は猛暑だというから、きっと街につく頃にはもうぐったりしてしまうだろう。
「まったく……お互い不便ですね、マスター」
「そうね。夏以外なら貴方に行ってもらうんだけど」
 エリアーヌが考え込んでいると森がまたゆらりと歪み、ユーグが戻ってきた。

 ユーグは手に持った二つ目の木箱をさっき運んだ物の隣に置くと、薄手の外套の懐から財布を取り出した。
「いやぁ、外は灼熱なのにこっちは寒いんだもんな。外套を着たり脱いだり大変だよ」
「ここに来るお客の悩みは大体それよ」
「やっぱりかぁ。さて、ところでお代は幾らかな?」
 ユーグの手にした財布は重たそうに膨らんでいた。恐らく結構な額をオロフから預かってきたのだろう。
 けれどエリアーヌは予め決めていた通りに、その問いに首を横に振った。
「お金は要らないわ。この水で代金は受け取らないと決めています」
「ええ!? いや、でもちゃんとこの通り代金は預かってきたんですよ?」
「お代は要りません。森の主はこの水を私利私欲で扱われるのを望んでいないから」
 困ったような顔をするユーグに、エリアーヌはもう一度静かに首を横に振った。
「その代わり、オロフに伝えてちょうだい。決してこの水でおかしな商売をしないでと。手間賃や輸送費は代金に含めてもいいけれど、過度の上乗せは許可しないわ。用途も、この熱病に対する研究や、他の病気に効く薬に使うと限定して欲しいの」
「しかし……」
「売った先での用途まで調べろとは言わないけれど、お客はある程度信用できる人を選べるでしょう? 私には番人としてこの森の意思を守る義務がある。国の為に協力することはあれどそれは変わらないわ。条件を守れないなら、もう水は譲れないとオロフに伝えて」
「……わかりました」
 エリアーヌの意志が固い事を悟ったのだろう。ユーグは顔を引き締めると、しっかりと頷いた。
 
(……そんな顔も出来るのね)
 笑顔を消したユーグの顔はハッとするほど厳しく、男らしかった。
 エリアーヌは少し見直したような気持ちで、それでも努めて何気なさを装いながら頷き返した。
「オロフの事は信頼しているけれど、改めてお願いするわ」
「確かに伝えます。けど何か、お礼代わりにオロフや俺にできる事ってないですかね? 多分オロフも気にすると思うから、何でもいいから何か言ってくれると彼もきっと喜ぶ」
 意外にも律義なユーグの申し出にエリアーヌは少し考え込んだ。
「そうね……ああ、そうだ、次に来る時に新聞を持ってきてくれるかしら?」
「新聞?」
「ええ、病の事がどのくらい載っているのか調べたいの。それだけでいいわ」
「わかったよ、じゃあ必ず。他にも何かあったらいつでも言ってくれ。オロフもそれを望むと思う」
「そうね、じゃあその時はお願いするわ。その……ありがとう」
「それはこっちのセリフだよ。それに、貴女みたいな美人の頼みごとならいつでも大歓迎さ!」
「……どうも」
 主の冷めたような顔を見て、ドニは思わず前足でそっと目を覆った。
 ほんの一瞬だがせっかく良い人間関係の第一歩が築けそうな雰囲気だったのに、ユーグの最後の言葉が全てを台無しにしてしまった。
 他人の前でも気にせず喋ることにしていたなら、ドニは思わずはぁぁ、と大きなため息を吐いていただろう。
 ドニの心配や落胆を他所に、ユーグは冷たくなった主の態度に気付くこともなく、にこやかに挨拶すると手を振って帰って行った。
 
←戻  novel  次→