一月の森の春
9

「けど、その俺の名誉のために言って置きたいんだけど、彼女にお世辞や冗談でああいう事を言ったわけじゃないんだ」
 ユーグの言葉にドニは首を傾ける。
「冗談じゃなかったっていうのは、本気でマスターを口説くつもりがあったという事ですか? 案外無謀なんですね」
「いやいやいや、そういう事じゃなくって! うーん、なんていったらいいのかな……その、俺は実はこの国よりもっとずっと南の出身なんだよ」
「南?」
「ああ。俺はここからずっと南にあるハシャーンという国で生まれて、物心つくまで育ったんだ。それでそのハシャーンて国は別名、情熱の国、なんて呼ばれてるんだよ」

 ドニはその国の名を知らなかったので面白そうにただ頷きを返した。
 半分以上引きこもりの主に仕えるドニは当然この国の外に出たことがない。それどころかこの森以外では近くにあるトレーズの街と、主と仲の良い数人の番人が管理する幾つかの森に行った事があるのみだ。
 加えて、使い魔はそれほどの知恵を求められる訳でもないので、特に勉強もしたことがない。
 ドニの知識はエリアーヌから与えられたものと、まださほど長くない生の中で少しずつ蓄えてきた身の回りに関することだけだ。
 だから遠い国から来た、と言うユーグの言葉は不思議な魅力でドニを惹きつけた。

「ハシャーンでは、男はどんな女性も尊重し、その美点を見出し、情熱的な言葉をかけられるようになってこそ一人前、っていう風潮があるんだ。女達はその言葉を聞いてますます美しくなる、と言われてる」
 ドニは今まで耳にした事もないような、遠い国のおかしな風潮を聞いて不思議そうに目を見開いた。
「ハシャーンで生まれた子供達は、毎日のように繰り返される父親から母親へ向けられた愛の言葉や褒め言葉を聞いて言葉を覚えるようなものなんだ。特に男の子は、言葉がしゃべれるようになって、自分の母親や隣の家の女の子に綺麗やら可愛いやらを言えたら、ようやく周りに認められてもらえるのさ」
 ユーグの言いたいことをようやく悟ったドニは、思わず口をぽかんと開いてしまった。

「だからその、そこで生まれて十歳くらいまで育った俺も、そこの国の空気が身に染み付いてるって訳で……」
「つまり、貴方にとっては口説き文句も呼吸をするようなものだ、ということですか?」
「そうそう、まさにそれ。俺にとっては、男としては当然の礼儀というか、むしろ考えるより前に言わなければ男じゃないくらいのものなんだよ。ただ、決して嘘は言わない、というのもハシャーンの男の流儀だから、彼女に言った言葉は全部本心だっていうのもわかって欲しい。彼女は褒めるところをわざわざ探す必要もないくらい美人だしね」
 それは認めるがそういう問題でもないだろう、とドニは呆れてため息を吐いた。

 世界には色々な国があり、遠く離れれば人種も国柄も生活習慣も、何もかもが大きく違う場合があることはドニもエリアーヌに聞いて知っている。
 だからそれを尊重しなければならないのだ、とも教わった。
 けれどそれを考えてもなお、ユーグの語る不可思議な異国の習慣にため息を隠せない。
「それは何というか、その……単に口説いているのより、もっと性質が悪いんじゃないかと僕は思うのですが。多分この国ではそれは通用しないと思いますよ?」

 犬であるドニには人間の男女の交流というものは一般的な知識として知っているだけで理解はあまりできない。その知識もここに行商に来る限られた人間達から得たものだ。
 ドニが知った知識から察するに、この国は魔法の徒を始めとした研究者肌の人間が多いせいもあり、そういった交流には控えめで奥手な人が多い傾向があるらしい。
 そんな国で過剰に女性を褒める男は多分男女どちらからも嫌われるのではないだろうか。
「やっぱり君もそう思うかい? 俺がこの国で振られ続けてるのは、やっぱりそのせいなのかなぁ」
「そりゃ、さっき自分を褒めたその口で、すぐ後に隣の家の女の子を褒めちぎるような真似をすればこの国の人は多分誰だって嫌がりますよ。ハシャーンではそういうことはないんですか?」
 振られ続けているという割に少しも懲りていないらしいユーグは首を傾げて頭を掻いた。
「ハシャーンの女性にとってはそんなことは日常茶飯事だからね。むしろどんな女性でも臨機応変に褒められるかどうかが男の魅力の一つだからなぁ。褒め言葉のレパートリーの少ない男は嫌われるしね。
 それこそ、自分を褒めたのに隣の女の子を褒めないなんて、この礼儀知らずな男は私の家の近所付き合いを壊すつもりかしら、と怒られると思うよ」
「……」

 そんな国に生まれなくて、ついでに人間じゃなくて本当に良かったとドニはしみじみと思う。
 その国で生まれ育ったならまだしも、他国から来た人間はかなりの違和感を感じるに違いない。
 ハシャーンでは動物たちも軟派だったりするのだろうかとドニは一瞬考え、慌ててぶるぶると首を振った。
「どうかしたかい?」
「……いえ、別に。とにかく、貴方の主張はわかりましたが、それはうちのマスターには通じていないどころか全くの逆効果です。マスターの前ではどんなに言いたくても少し控えてください」
「わかった、気をつけるよ。けど、君のマスターと仲良くなりたい気持ちは、本当にあるんだよ。どうしたもんかなぁ……何か良い考えがあったりしないかな?」
「……犬にそんな意見を求めないで下さいよ」
 ドニはこの上ない正論と共に深いため息を吐き出した。

 けれどドニの性格では、使い魔とはいえ犬に対して真剣な顔で語りかける男に冷たい態度をとるのは難しい。
 ユーグが悪い人間ではない事はこの短い時間の中でも良く伝わってきたし、もとよりドニの本能はこの人間は大丈夫な部類だと初めて会った時から嗅ぎ分けていた。
 だからこそ、引きこもりの主の視線を少しでも外に向けるきっかけになればと今まで放って置いたのだ。
 ユーグが本当に真剣なのだとしたら、少しばかり協力しても良いかもしれない。

 ドニは少し考えて、一つだけ良さそうな事を思いついた。
「あの、例えば……花とか、どうでしょう」
「花? 花を彼女に贈るのかい?」
「ええ。見ての通りこの冬森ではほとんど花は咲きません。咲いてもせいぜい花だと一見気づかないような、小さくて控えめなものばかりです」
 エリアーヌは時折他の森を訪ねる事があるが、その中でも特に六月の森の番人と仲が良い。
 六月の森は雨が多いがその分緑が濃く、色とりどりの花が森のあちこちに咲いている。
 六月の森を歩きながら、エリアーヌが花々を愛おしそうに飽きずに眺めている姿をドニは何度も見てきた。
「色鮮やかな夏の花は、この森では決して手に入りませんからマスターも悪い気はしないと思います。あ、でも沢山でなくていいんです。マスターは沢山の花を貰っても、多分困ると思うので」
「ここは一年中白銀だもんなぁ……わかったよ。ちょうど彼女に水のお礼ももっとしたかったところだし、考えてみるよ」
 よし、と呟いてユーグは屈めていた体を起こして立ち上がった。

「じゃあ、今日はこのまま仕事を終わらせて失礼するよ。貴重な意見をどうもありがとう、ドニ君」
「ドニでいいですよ。ユーグさん」
「じゃあ俺もユーグでいいよ。君とは良い友達になれそうだ」
 ユーグは笑いながらドニのふわふわとした頭を優しく撫でた。
「……花が好きなところは、変わっていないんだな」
「え?」
「ああ、いや、なんでもない。さて、じゃあ君のご主人に仕事の終了の報告に行こうか」
「あ、はい」

 ユーグはそう声をかけると森に向かって歩き出し、ドニは尻尾をパタパタと振りながらその後を追いかけた。
 久しぶりに主以外の人間と沢山話ができてドニは少し嬉しかった。
 剣を握り慣れた大きな手の平もとても暖かかった。
(どうかマスターともうちょっとくらい上手くいきますように……)
 目の前を歩く男の背中を見ながらドニは胸の内でそっと祈る。
 その願いが叶うのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。







 ぺらり、と紙をめくる小さな音が静かな部屋に何度も響く。
 エリアーヌは今日届けられた新聞を捲り、その紙面に真剣な視線を落としていた。
 手にしているのはトレーズの街で発行されている地方新聞だから厚くはない。
 掲載されている情報も地方の話が多いが、それでも中央の事も色々と載っている。
 ユーグによってエリアーヌのところにこの新聞が届けられるようになってからもう数回目になるが、熱病の情報は彼女が思っていたよりもずっと詳しく掲載されていた。
 国は国民の不安を煽る事を懸念するよりも、正しい情報を広く伝え予防を促す方針をとったらしい。
 賢明なことだ、とエリアーヌは小さく頷く。

 だが病の広がりはそれによって遅くはなっているものの、まだ抑えられてはいないようだ。熱病は南から北へとじわじわと広がっている。
 国は医者や指定業者以外の国内外での移動を制限し始めていると新聞には載っていた。
 そのおかげか今のところ王都の周辺より北での報告はないらしいが、それも時間の問題だろう。
 一月の森の傍のトレーズの街は一番北のほうにあるから当分は病はここまで来ない可能性が高い。
 けれど国内の人の移動を制限するには限界があるので油断はできない。

「……私が魔法薬作りが得意だったら良かったのだけど」
 エリアーヌは小さく独り言を呟いてため息を吐いた。
 森で暮らしているとどうも独り言が増えて仕方がない。
 今も呟いた通り、エリアーヌは実は魔法薬作りが不得意な魔女だった。
 細かい仕事は嫌いではないのだが、彼女は火を扱う魔法が苦手なのだ。
 魔法薬作りには魔法で灯した炎を繊細に扱う技術が大抵の場合必要になる。
 材料を決まった温度でじっくりと加熱したり、逆に一気に沸騰させたり、それすら通り越して炭化するまで炙ったりといった作業が沢山あるのだ。
 それ以外の、例えば水に属する材料の力をより強く引き出したり、それらをうんと冷やしたり、といった事は彼女にも上手くできるのだが、それだけで作れる魔法薬の種類は少ない。

「私が用意できるのはせいぜい材料止まりだものね」
 エリアーヌも一通りの魔法薬の作り方は先代の番人からちゃんと習っている。けれど優秀な生徒だったとはとても言えない自覚もあった。

「こういうのは、やっぱり得意な人に任せるのが一番よね」
 独り言と共に新聞をたたむと、エリアーヌは立ち上がって作業部屋への扉をくぐった。
 部屋の中をぐるりと見回し、干してある草や木の根などに目を留める。
 これらはここ数日に水汲みの途中で採ってきた薬草だ。
 どれも丁寧に水分を抜き取られ、薬効を失わぬようにきちんと処理されていた。

「こういうことなら得意なんだけど……」
 ハァ、とため息を吐き、それから彼女はそれらの薬草に手を伸ばした。
 出来立てのものを分別して袋や瓶に詰め、それからガラスのはまった棚にも手を伸ばす。
 ここにはすぐに売るつもりのない、非常時の為の貴重な素材が保存してあるのだ。
 もう何年も大切にとっておいた物も入っている。
 エリアーヌは細かな瓶や引き出しの中身を一つ一つ確かめながら、次々と肩掛け鞄へとしまいこんだ。
「……もったいないけど、こういう時に使ってこそだものね。少しは役に立つといいけれど」

 そうして材料や道具などをより分けているとキィ、と小さな音がして扉が開いた。
 作業部屋の扉を頭で押し開けながらドニが姿を現す。
「お帰りなさい」
 エリアーヌは背中を掛けたままドニに声を掛けた。
「アルトーさんは帰ったかしら? 問題はなかった?」
 もうユーグの訪問は今日で五回目ほどになる。エリアーヌは今日はとうとう用があるからと理由をつけてドニに応対させ、姿を見せる事すらしなかった。
 悪さをするような男ではない事は不本意ながら認めているし、ドニが監視してくれているので心配はない。
「ドニ?」
 使い魔が何も答えないことを訝しく思ったエリアーヌは作業の手を止めて振り向いた。
 途端、 場違いなまでに鮮やかな色が彼女の目に飛び込んできた。
 ドニは振り向いた主に口に咥えていたものをずいっと差し出した。
 それは目に眩しいほどの黄色い色を宿した、大きなひまわりの花だった。
「……ひまわり?」
 エリアーヌはその黄色に引かれて思わず手を伸ばす。
 ドニは主の手にそっと大輪の花を落とすと、嬉しそうに尻尾をパタパタと左右に振った。
 手がない彼はようやく解放された口で、ワン、と犬らしく一声吼えた。

「これ、ひまわりって言うんですか? 夏の花だっていって貰ったんです。マスターにって」
「これを……あの人が?」
「はい。新聞くらいしかお礼が出来ていないから、その代わりにって」
 エリアーヌは自分の顔ほどもある大きな花をまじまじと見つめた。
 この森では見ることの適わない夏の花は大きく立派で、毛羽立った茎を握ると少しむずがゆい。
「夏の花って大きいんですね。すごく背が高くなるんだって聞きましたよ」
「そっか……ドニは夏は外に出たことがないものね。初めて見るのね。私も随分と久しぶりに見た気がするわ」
 冬枯れたこの森では見ることの適わない鮮やかな黄色の花びらを、白い指がそっと撫でる。
「……こんなところに持ってきても、すぐに枯れてしまうのに」
 エリアーヌは小さく呟くと作業机の上の道具入れから白墨を取り出した。
 久しく使われることもなくほこりをかぶっていた花瓶も探し出し、さっと洗って水を入れるとひまわりを挿して居間のテーブルの端に置く。
 それから彼女はそのテーブルの真ん中に白墨で魔法陣を書き始めた。
 エリアーヌが温室に使っているものと同じ、空気の温度を変化させる為の魔法だ。
 書き上げた魔法陣に間違いがないことを確かめるとエリアーヌはその中心に花瓶をそっと置いた。

『此処は一月の森に在らず この小さき円環を魔の理から解き放て』
 エリアーヌの声に合わせて魔法陣が白く輝いた。そっとその環の上の空間に手をかざすと、そこだけ流れる空気の温度が違うことがわかる。それはエリアーヌの大嫌いな、夏の気温に違いなかった。
「……花に罪はないものね」
 誰かに言い訳をするようにエリアーヌはそっと呟いた。
 エリアーヌは出かける用意も中途のまま、居間の椅子に腰をかけるとぼんやりと花を見つめた。
 最後にこの花を見たのはいつの事か、思い出そうとするとちくりと胸が痛む。
「マスター?」
 心配そうに彼女を見上げる使い魔の頭を撫で、エリアーヌは首を横に振った。
「なんでもないわ。昔を思い出しただけ。まだ、この森に来る前のことをね」
「王都に住んでたんですよね?」
「そう……もう十年以上前になるのね。懐かしいわ。あの頃の私は体が弱くて、特に夏が苦手で暑くなるといつも寝込んでいたのよ」
「今とあんまり変わりませんね」
 エリアーヌの細い指が、生意気な使い魔の鼻先をピンと弾く。
 それに驚いたドニはクシュン、とくしゃみを一つするとブルブルと体を震わせた。
「寝込んでいる部屋の窓からは空と入道雲しか見えなくて……私、いつも退屈だったわ」

 エリアーヌはそう言うとまた黙りこんで花を見つめた。
 だから嬉しかったのだ、と胸の奥で少女のエリアーヌが呟いた気がした。
 かつての親友と、花をくれた少年の姿が記憶をよぎる。
 また少し、胸が痛んだ。
 テーブルの上の黄色い花は、自分がエリアーヌの思い出を引き寄せた事など知らぬそぶりで、ツンと顔を上げて彼女を見つめていた。


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