一月の森の春 6 |
翌日の朝、日が完全に昇った頃エリアーヌは起き出して仕事を始める事にした。 着替えや食事を済ませ、白い外套を着込み雪歩き用のブーツを履いて自分の支度を手早く済ませる。 ついでドニを呼び、大人しく待つ彼の背に革帯がついた鞄を乗せた。 二つの革鞄が体の両脇に垂れ下がり、動きを妨げない程度に胴体や足に皮ベルトが回されそれを支える形になっている。このドニ専用の鞄は特注品だ。 ドニが大きくなって、エリアーヌの採集などの仕事を手伝いたいと言い出したときに鞄屋を呼んで作った物で、これを着けると彼は少しだけ誇らしげな顔を見せる。 体の高さだけでエリアーヌの腰近くまであるような大きな犬なのに、そんなところは存外子供っぽい。 口には出さないがいつまでたっても可愛い使い魔に、エリアーヌはそっと口元を綻ばせた。 「重くない?」 「全然。軽いもんです!」 しっかりと体に着けた鞄に空の瓶を詰めてもらい、ドニは部屋の中をとことこと歩き回った。 「でも、帰りにはそこに水が入るわよ?」 「帰りって行っても、どうせほんの少ししか歩かないじゃないですか。平気ですよ」 「そう? 重かったら言ってね」 何だかんだいって過保護な所もあるエリアーヌは、心配そうに彼を見ながら自分の肩掛け鞄に瓶を詰めた。 エリアーヌの方が体力も力もないのだからもう少し数を減らすべきだとドニは思う。 けれど実は彼女は自分が健康だと言う事に妙にこだわる性質だ。本数を減らせと言えばかえって意固地になるに違いない事をドニは経験から知っている。 賢い使い魔は後でこっそりエリアーヌから多めに瓶を受け取ればいいと決めて、支度の出来た主の脇に付き従って静かに外に出た。 「さて、では行きましょうか」 外に出ると今日は少しうす曇りの空だった。夕べは雪が降ったので外はそれほど寒く感じない。雪というと寒いと言う想像をする人は多いが、雪が降れば冷たい風が吹くよりもかえって暖かく感じる。 エリアーヌは白い息を吐き出すと、家の裏手にある森の奥への小道の方に歩き出した。 家から少し離れると雪が積もっていてとても歩きにくい。 ふわふわの新雪を蹴散らしながら一人と一匹は小道の前へと踏み込んだ。 「森よ、泉まで道を開いて」 その声に応えるようにざわ、と木々が震える。あちこちでぼさぼさと雪が木から落ちる音がした。 エリアーヌは一つ頷くと小道へと向かって一歩を踏み出した。そのすぐ脇にドニも続く。 途端、辺りの景色がぐにゃりと歪んだ。 エリアーヌは気にせずもう一歩踏み出す。景色はさらに激しく歪み、まともに見ていたら目が眩みそうな風景が流れるように過ぎていく。 最後にもう一歩、エリアーヌが足を踏み出すと、その歪みはピタリと消え去った。 「着いたわ」 「相変わらずあっという間ですね」 歪みが消えた森の景色は一変していた。 目の前に広がっていたのは、そこだけ季節が違うのかと思わせるほどの緑が広がる草地と、その中心で豊かな水を湛える透き通った美しい泉の姿だった。番人は自分の森の中なら何処でも望む場所へほんの一瞬で移動する事が出来る。 広い森を管理する為に与えられている特権だ。その特権は、使い魔であるドニにも与えられており、二人にとってはこの移動の景色も見慣れたものだった。 「あら、春霞草がもうまたこんなに育ってる。採って行こうかしら」 目ざとく薬草を見つけて手を伸ばしたそうにするエリアーヌをドニが見上げる。 「駄目ですよ。今日はまず主に挨拶しないと!」 「あ、そうだったわね。じゃあ先に済ませましょう。さて……起きてくれるかしら?」 エリアーヌは泉の脇の草の上に瓶の入った鞄をそっと下ろすと、その場にしゃがんで水面にそっと手を伸ばした。 冷たい水が彼女の白い指先に触れる。その冷たさを感じながら、エリアーヌは静かに目を閉じ、胸の奥で呼びかけた。 『起きてちょうだい。一月の森の精霊――ジャンヴィエ。ねぇ、応えて』 胸の奥で何度か呼びかけると、やがて静かだった泉の表面がゆらりと揺れた。 こぽ、と小さな音と共に幾つもの泡が泉の底から上がってくる。 エリアーヌは音を耳で捉え、そっと目を開いた。泉から泡がぽこぽこと出てくる以外は、辺りには何も変化はないように見える。 だがエリアーヌは、その泡に混じる精霊の声を確かに聞いた。 『……何か用?』 少女のような少年のような、どちらともつかない声はエリアーヌの耳ではない所に届いた。寝起きの不機嫌さを滲ませた声に胸の内で苦笑する。 八月のような真夏の季節は、一月の森の精霊にとってはまさに鬼門だ。 自分の森の気候を維持する為に彼(?)は相当の力を使う事となる。 だからこの季節、精霊はこの冷たい泉の奥深くに繋がるどこか別の場所で静かに眠っている。 それを揺り起こすのは流石に申し訳なかったが、場合が場合なので許してもらうしかない。 『用があるから起こしたのよ。ジャンヴィエ、聞いてちょうだい。今あちこちの街で熱病が流行ろうとしているようなの』 『……』 欠伸をしているような気配が微かに伝わって、エリアーヌは少し唇を尖らせた。 『それで、今国中の魔法の徒や医者達が特効薬を開発しようとしているらしいの。そのためにこの水を分けて欲しいと依頼があったわ』 『……そう。いいよ、どうぞ。好きなだけ汲んでいったらいい』 随分とあっさり告げられた言葉に、エリアーヌは少し目を見開いた。 『そんなにあっさり……いいの?』 『別にこの泉の水は持ち出しを禁止している訳じゃない。ただ、私利私欲で用いられるのが不快なだけ。そうじゃないなら問題ない』 精霊の返事にエリアーヌは詰めていた息をほっと吐き出した。 『ありがとう。しばらくはここを往復して、騒がせる事になるけれど……ごめんなさいね』 『かまわない。寝ていればわからないから。エリアーヌこそ、君も夏には気をつけた方が良い。病を貰わぬように』 『気をつけるわ、どうもありがとう。起こしてごめんなさい』 『いいよ』 くすりと笑う気配と共に精霊の声が遠のいた。 また眠りに戻るのだろうその声に、エリアーヌは感謝を送った。 『ありがとう……おやすみなさい、ジャンヴィエ』 『おやすみ、エリアーヌ』 気がつけば泡は既に消え、水面は元の通り静まり返っていた。 久しぶりに精霊と話をした嬉しさでエリアーヌは頬を緩める。 精霊が寝てしまってつまらない、と言うのも彼女が夏を嫌う理由の一つなのだ。 泉に浸していた手は凍りそうに冷たくなっていた。 はぁ、と暖かな息を吐きかけ、その手を軽く擦る。 一月の森の精霊は、十の頃からこの森に住む彼女にとって、数少ない友の一人だった。 これまでも、そしてこれからもずっとこの森で一人で暮らす事をエリアーヌはもう当然のこととして受け止めている。 だからこそ、こうして友が寝てしまう季節は嫌いだ。 夏の不快さに比べたら、この手の冷たさなんてどうという事もない。 そんな事を考えながら、エリアーヌは鞄から瓶を取り出して蓋をとり、ちゃぽん、と澄んだ水に沈めた。 |
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