一月の森の春 5 |
「ねぇ、マスター。マスターはあの人が嫌いなんですか?」 台所で料理をするエリアーヌを下から見上げながら、ドニはずっと疑問に思っていた事を主にぶつけた。 エリアーヌは新鮮なトマトのサラダを作りながら、可愛い使い魔の質問に少しだけ眉を寄せた。 「あの人って、誰のことかしら?」 「とぼけたってだめですよ。もちろん、ユーグさんのことに決まってます」 「まだ三回しか会っていない人のことを、嫌いも何もないわよ」 主の言葉は勤めて平静を装っていたが、賢い使い魔は騙されなかった。 プルプルと人間のように首を横に振ると、ついと胸を反らした。 「ぼくがマスターの声や態度の変化に気付かないとでも思ってるんですか? それにきっと皆だって気付いてますよ。だってマスターったらあんなにあからさまなんだもん」 タン、と高い音を立ててトマトの最後の一切れを切り刻むと、エリアーヌはそれを器に放り込んで足元の使い魔をじろりと見下ろした。 「骨付き肉はまたにする?」 「なっ!? ひ、ひどいです! 自分に都合が悪いからっていたいけな使い魔を脅迫ですかっ!」 「人聞きが悪いわ。ただ、ちょーっと聞いてみただけじゃないの」 ドニはぶるぶると全身を振るうような仕草で激しく主の意見を否定した。 「ぼくの主はそんなひどい人じゃないと信じていたのにぃ!」 可愛らしい少年の泣きそうな声でそう言われるとエリアーヌの胸にも一抹の罪悪感が湧く。 エリアーヌはため息を吐いて包丁を洗ってしまうと、今日ケネックが持って来てくれた肉の包みを取り出した。 「はいはい、わかりました。肉は取り上げないからそんな情けない声を出さないでちょうだい。私が悪い事してるみたいじゃない」 「しなかったって言うんですか!」 「生? 焼く?」 「あ、生で!」 目の前に骨付きの大きな肉を見せられ、ドニはすぐに気を取り直したらしい。 生の肉でいいなら楽でよい、と自分の使い魔の肉食ぶりに呆れながらもエリアーヌは大きな皿に肉を乗せた。 人間用には夏野菜や鶏肉を入れた美味しい煮込み料理を作ってある。 エリアーヌはパン用のナイフと共にサラダと肉の皿を居間へと運び、自分のものはテーブルへ、ドニの物はその下へそっと置いた。 「さ、どうぞ」 「いただきまぁす!」 きちんとおすわりをして待っていたドニは、主の許しを得て大喜びで肉にかぶりついた。 無意識なのだろうが尻尾をぱたぱたと振りながら肉を味わうその姿はなんとも可愛い。 こういう時、使い魔に大きな犬を選んでよかったとエリアーヌは密かに思う。 そんな姿に癒されながらエリアーヌもパンを一切れ切り取って食事を始めた。 夏野菜を沢山入れた煮込み料理はトマトの酸味やナスの甘みが効いていてとても美味しい。 夏の間はもう少し頻繁に食料を仕入れる価値があるかもしれないと彼女に思わせるほどだ。 (面倒ごとさえ振って湧かなければ、それも良いのだけれどねぇ) しかし森を開いた途端にさっそく面倒が訪れたところを見ると、そうも行かないらしい。 美味しい食事と厄介ごとを天秤にかければエリアーヌの中でその皿は厄介ごとから逃げ出したい方にゆるりと傾く。 けれど反対側の皿にはすぐさまドニが飛び乗る事だろう。 (やっぱり使い魔には草食の生き物を選ぶべきだったかしら?) 薄情な主がそんな事を考えているとはつゆ知らず、ドニはペロリと肉を平らげ、残った骨を楽しそうに齧っていた。 「で、結局のところどうしてなんですか?」 「……あら、忘れてなかったの」 食後に暖炉の前でお茶を飲みながらくつろいでいると、ドニがさっきの話題をまた蒸し返して問いかけた。 エリアーヌはため息と共にお茶を飲みこみ、仕方なく少しだけそれに答える。 「確かに、私はあのアルトーさんが好きじゃないわ。これで良い?」 「何でですか? あの人、そんなに感じ悪そうじゃないのに」 「あの人が初めてここに来たときのこと憶えてる?」 「えーっと……確か三ヶ月くらい前でしたっけ?」 ドニは懸命に彼と初めて会った時の事を思い出そうとした。 彼の記憶では、あの時はオロフの経営する店の誰かと一緒に来ていたはずだ。 「そうよ。オロフの店の仕入れ担当と一緒に来たのよ。そして初対面で彼は私にこう言ったわ」 『ええ、貴女みたいな綺麗な方が番人なんですか!? いやぁ俺、番人てもっと年寄りがなってるんだろうと思ってましたよ。こんな美人だなんて……あ、でも確かに貴女の銀の髪やその空色の瞳は、冬の森に相応しい美しさですね……あれ? でもあの、どこかで俺とお会いした事ありませんか?』 「……マスター、良く憶えてますね」 男のセリフをわざわざ真似をしながら語る主に、ドニは呆れ半分の視線を向けた。 「ええ、忘れないわよ! 何なのあの軽い口説き文句の見本市は! どこかでお会いした事ありませんか、ですって!?」 エリアーヌは憤懣やる方ないといった様子で、手にしたカップを幾分乱暴にソーサーに置いた。 確かに男は会うたびに軽い口説き文句をエリアーヌに熱心に投げかけている。 昨日は雇い主であるオロフが一緒だったから随分大人しかったが、それでも挨拶代わりに軽口を叩いていたのは確かだ。 けれど、エリアーヌが客に口説かれたことはこれまでにも何度もあった。 今まではそれらを全て適当にあしらっていたはずだ。 「でも、それだけなんですか? マスターは今までどんなお客だって大抵は気にしてなかったじゃないですか。それにあの人、口説き癖以外は普通に良い人そうですよ?」 「そこがまた腹立たしいのよ。あれで悪い男だったら即刻出入り禁止にしてやるのに……」 正当な理由なしに森の出入りを禁じる事はできないというのがエリアーヌの考えだ。 森に人を招くかどうかは番人の采配が許されているので、相手を選ぶ事は可能だし、実際に自分の好き嫌いで招く相手を選ぶ番人も確かにいる。 番人は気まぐれだといわれる所以だろう。 それでも、エリアーヌは出来るだけ公正であろうと常に努めている。 先代がそうだったからと彼女は言うが、ドニは密かに主のそういうところを尊敬していた。 だからこそ、その主がどんな理由でユーグを嫌っているのか気になってしまう。 「それにね、あの外見も苦手なの」 「外見!?」 相手の外見どころか自分が人にどう見られているのか気にもしない、美人だと皆が口を揃えて言うのに身につけるのは常に同じデザインの白か黒の違いしかない平凡なローブだけ、という主がまた珍しい事を言い出したとドニは驚いて聞き返した。 エリアーヌは神妙に頷いて指を一つずつ折る。 「まず、あの赤毛が苦手よ。暑苦しいったらないわ。もともと私は赤毛が好きじゃないのに、あんなに真っ赤で。夏場に絶対見たくない色だわ! それに、背も高すぎるし。なんだかガッチリしていて威圧感たっぷりだから、近づいて欲しくないの。それとあのにやけた笑顔も嫌。なんだか嫌な事を思い出すような気分になるわ。勝手に人の手を握って強引に握手をしてくるのも気に入らないし……」 次々と上げられた条件にドニは思わず目を白黒させた。 どれもこれも普段のエリアーヌなら気にもしないような事ばかりだ。 夏に赤毛が暑苦しいなんて、一年中冬のこの森では全く関係ない。威圧感のある体系や、握手でいったら今日来ていたケネットの方がよほど問題があるように思える。 ますます訳が解らなくなったドニは、ため息を吐いて首を横に振った。 「結局、相性が合わないってことでしょうか?」 「ええ、そうね。それよ多分。とっても合わないの。それに、関係ないあの人には悪いかもしれないけど、昔を……」 「昔?」 ドニが聞き返すと、エリアーヌはハッとしたように口元を手で覆い、俯いてしまった。 「何でもないわ……」 キュッと唇を引き結び、思い出したように冷めたお茶を飲む主を見て、ドニはそれ以上の質問を諦めた。 長い経験から、こういう顔をした時の主はもう何も語らないと良く知っている。 疑問は残ったけれど、それを突付いてこれ以上彼女を不快にさせたくなかったドニは黙ってエリアーヌの座る椅子の脇に寝そべった。 目の前では暖炉が優しい光と暖かさを投げかけている。 エリアーヌは自分の考えに沈んでいるのか、黙ってその炎を見つめていた。 あの男の髪を思い出させるような赤々とした炎を。 そういえばあんな赤毛の番人がどこかの森にいるのだと聞いた事があったのをドニはぼんやりと思い出した。 番人同士でも顔を合わせた事のない者が結構いる。 エリアーヌはこの森に引き篭もっているから尚更だ。 主がこれ以上引き篭もりにならぬよう、男が不快な思いを彼女にさせないようにしっかりと見張ろうと決意を新たに、可愛い使い魔は静かに目を閉じた。 外では静かに雪が降り始めていた。 |
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