一月の森の春
4
 ケネットを見送って、エリアーヌは脇で静かに順番を待っていたオロフに向き直った。
 老人の脇に立つ男を極力視界に入れないようにして、エリアーヌはオロフに笑顔を向ける。
「さて、お待たせオロフ。今日は何が入用かしら?」
「ふむ、今ある薬草なんかを全て見せてもらえるかね?」
「ここにあるのが大体全部ね。まだ下処理の済んでいない物は抜けてあるから」
 エリアーヌは袋や箱の口をそっと開き、薬草や樹皮を一つ一つ袋から出してオロフに見せた。
「いつもとあまり変わらないわ。冬茨の葉、銀糸草、雪楓の葉と樹皮、実のついた宿り木の枝、雪綿草の花……後は新雪を溶かした、魔法薬の基材となる水ってところね」
 老人は鋭い目でそれらを見つめ、時には手にとって香りを嗅いだりして慎重に検分した。
「うむ、どれも良い品じゃ。さすがにあんたの品は質が良い」
「気候が変わらないから、出来にもムラが少ないだけよ」
 老人は彼女の言葉に笑って首を横に振り、少し後ろに立つユーグを振り返った。
 ユーグは一つ頷き、手に持っていたオロフの商売道具の鞄を開け、分厚い革の財布を彼に手渡した。

「いかほどかね?」
「そうね、全部で一ゴルと三十シルというところかしら」
「あんたはいつもそうじゃな。もう少し儲けなけりゃいかんよ。通常の仕入れ値から考えたら大分安すぎる」
「あら、その代わりの私との約束、貴方達はちゃんと守ってくれるでしょう? 私の品は決して値段を釣り上げすぎない事、貧しい人にも門を開く事。それが守れない人には私は何も売らないわ。心配は無用よ。どうせ趣味でやっている商売ですもの、売り値が多少安くても困る事はないの」
 エリアーヌのセリフに傍に座っていたドニがピクリと片耳を上げた。
 嘘ばっかり、とその顔に書いてある。
 街に行かないから、本当は商人達が買い付けに来てくれなければエリアーヌはそれなりに困るのだ。
 暑い中に出て行くのが大嫌いな彼女にとって、街まで行くよりも森の中を歩き回って薬草などを採集している方が遥かに楽だという事をドニは良く知っている。
 なんといっても、エリアーヌの採集に荷物持ちとして付き合うのはドニの役目なのだから。
 だが主に忠実な使い魔は慎ましく沈黙を守り、その心中は誰にも知られることは無かった。

 オロフは結局少し考えた後、エリアーヌに小さな金貨を一枚と大銀貨五枚を差し出した。
「多いわよ?」
「わしからもおまけじゃよ。お前さんの丁寧な仕事に対する、ささやかな礼じゃな」
「……私のお客は律儀で助かるわ」
 エリアーヌは苦笑を浮かべながらもそれを素直に受け取り、革袋に収めた。
 そして台の上の品々を、手早く元の通りの袋や箱にきちんと戻していく。
 ユーグは黙って手を伸ばすとそれを手伝い、箱や袋を次々とオロフの馬車へと運び込んだ。
「おおい、エリアーヌ!」
「あら、ケネット。終わったかしら?」
「ああ、俺達は先に失礼するよ。それとこれ、忘れるところだった」
 ケネットは荷馬車の御者台の端に置いたままになっていた大きな布の袋を持って来て、エリアーヌに手渡した。
 エリアーヌはそれをそっと開き、中を覗き込んだ。途端にふわりと香ばしい匂いが彼女の鼻を刺激する。中身はふんわりと美味しそうに焼けた何種類もの焼きたてのパンだった。
「あら、美味しそう」
「うちの女房に持っていけって言われてたんだ。あんたのお陰でうちは夏でも商売繁盛だ。そのお礼だってよ」
「ありがとう。これが一番嬉しいわ。今日はこれから時間をかけて自分でパンを焼かなくちゃいけなくてうんざりしてたのよ。女将さんによろしくね」
「おう、伝えとくよ。それじゃあな! また注文をよろしく!」
 ケネットは馬車に飛び乗ると賑やかに去っていった。
 去り際にニコルがケネットの隣からにこにこと可愛い笑顔で手を振ってくれた。
 エリアーヌも笑顔でそれに手を振り替えし、嬉しい贈り物を大切に胸に抱えなおす。

 その間に、オロフとユーグは荷物を一通り荷馬車積み込み終わっていた。
 しかし荷物を積み終えても、彼らは立ち去る様子を見せない。
 エリアーヌが首を傾げていると、オロフはユーグに指示し、馬車の脇に置いてあった大きな木箱を家の入り口近くまで運ばせた。
「何かしら?」
 ユーグは足元の大きな木箱を彼女に見える位置に動かし、蓋を開けた。箱の中からきらりと光がこぼれる。
 大きな木箱には、エリアーヌが水を入れているのと同じ、透明な細口の瓶がぎっしりと詰まっていた。
「……まぁ。随分沢山の瓶だわね。どうしたの、これは」
「実はな、折り入って相談があるんじゃ」
「相談? さっきの商談とは別に?」
「うむ……エリアーヌ、お前さん、今王都で熱病が流行りかけている事を知っているかね?」
 オロフの唐突な言葉にエリアーヌは目を見開き、そして少し考えてから首を横に振った。
「いいえ、初耳だわ。最近の話?」
「ああ、ここ二週間ばかりの話題じゃな」
 それならエリアーヌに聞き覚えが無かったのも頷ける。
 エリアーヌはこの所、たっぷり二週間くらいは商売をサボっていたからだ。

「ひどいの?」
「今のところは、医者や薬師、魔法医が懸命に患者を診とるじゃろう。まだ彼らの手が回る範囲で済んどるからのう。じゃが、少しずつだが報告される患者の数が増えとるらしい」
「発生したのはここよりずっと南の小さな町からだったらしいんだ。最初はこの猛暑による熱中症だと皆思ったらしい。けれど、今は段々北の方にも患者が出てきている」
 オロフの話をユーグが静かな声で補足した。
 ユーグはオロフの店の用心棒のような事をしているのだろうとエリアーヌは見ていた。オロフの店は本店はトレーズの街にあるが、王都を始め他の街にも支店があるというし、老舗だけあって付き合いも広い。その店の用心棒ならあちこちでそういう話も聞いてくるのだろう。
 だがエリアーヌはユーグと積極的に会話をする気になれず、あえてオロフだけを見つめて口を開いた。
「それで……まだその熱病に良く効く薬は見つかっていないの?」
「うむ。王都でも他の都市でも、あちこちが協力して特効薬を作ろうと模索しとる。わしの店にも、手に入るだけの魔法薬の材料を用意して欲しいと国から要請があってな」
「……なるほど。それで、この瓶なのね?」
「ああ、わかってくれたかの。そう、これに、《凍らずの泉》 の水を分けては貰えまいかのう?」

 エリアーヌは顎に手を当てて小さく呻いた。
 《凍らずの泉》 というのはこの一月の森の一番奥、中心部にある小さな泉の事だ。
 この冬の森にあって一年中雪に隠れることも氷が張ることもなく澄んだ水を湛えるその泉は、いわばこの森の聖地と言える場所だ。
 泉にはこの森の主である一月の森の精霊が住み、番人しか近づく事を許されない。
 その澄んだ水は飲めば体を中から浄化すると言われ、基材として使えばあらゆる魔法薬の効果を増幅すると言われているのだ。
 だがエリアーヌが番人に就任してから、この水を外に売ったことは一度も無い。
 代々、本当に緊急の場合しか外に出してはいけないと番人に伝えられているからだ。
 それを分けろといわれても、エリアーヌは簡単に首を縦に振るわけにはいかなかった。
「……さっきの新雪の水でもかなりの効果はあるはずよ? それではいけないの?」
「無論、それで効けばわしらも無理は言わん。じゃが、今回はそれで収まるまいとわしは読んでおる」
「……そう」

 エリアーヌはオロフの年齢が幾つなのかは知らなかった。しかし、優れた魔法の徒は歳を取るのが遅くなる傾向がある。
 この老人が見かけ以上に長い間、魔法道具店を営んでいるのは間違いない。そうでなければ地方の店の主に、国から依頼が行く事などないだろう。その彼がここまで言い切るのだから、その予感はかなり確かなように思われた。
 エリアーヌはしばらく考え、そして深いため息と共に気持ちを決めた。
「わかったわ。森の精霊と交渉してみましょう」
「おお、引き受けてくれるか! 有りがたい!」
「ええ。緊急事態なのは間違い無さそうだしね。それで、この木箱の瓶をいっぱいにすればいいのかしら?」
 オロフは一度頷き、それから首を横に振った。
「それがな、この瓶はとりあえず王都の魔法協会に送る分なのじゃよ。その他にも、優秀な医師や薬師のところに送ってくれと何件も頼まれておる。恐らくこれからも増えるじゃろう」
「そんなに? じゃあ、何度もここに瓶を持って取りに来るって事かしら?」
「うむ。ついてはのう、しばらく二日おきにこの森に人をよこさせて貰いたいんじゃよ。代わりの瓶を持って来て、水を受け取って帰るという風にな。病の収束がいつになるのか、今はまだわからんからのう」
 エリアーヌはもう一度ため息を吐いた。
 普段でさえ頻繁に森を開かないというのに、二日おきだなんて、と内心で頭を抱える。
 けれど人の命がかかっている時に嘆く事ではない、と彼女は一つ頷いた。
何より、病の苦しさは彼女自身も良く知っている。
「仕方ないわね……少し待っていて」

 エリアーヌは二人を待たせると家の扉をくぐり、仕事部屋に入ってテーブルの上の道具入れに手を伸ばした。
 部屋は薄暗いが明かりをつけるほどでもなく、すぐに目当ての鋏が見つかる。
 次いで小さな引き出しが沢山ついた棚から、細い紐を持ち出した。それをさっき見つけた鋏で丁度良い長さに切り、それから自分の銀の髪を一房掬い取った。髪を適当な場所から紐で結び、そこから三つ編みをして終わりをまた紐で結ぶ。
 最後に、始まりのところをシャキ、と鋏で切り落とした。

「お待たせ」
 玄関前に待たせたままの二人にエリアーヌは静かに声をかけ、振り向いたオロフに手の中の物を差し出した。
 オロフは渡された細い三つ編みをまじまじと見つめ、それが何であるか気付くと目を丸くしてエリアーヌを見た。
 長く下ろされた彼女の髪を良く見れば、不自然に短い部分が一筋混じっている。
「いちいち道を開いていたら他の商人も来てしまうわ。しばらくは私も忙しくなりそうだし、これを使ってちょうだい」
「これは……」
「この森の鍵よ。効力は私が許すまで。これを持って森に踏み込めば一瞬でここまで来れるわ。外に馬車を置いて、往復しても手間はかからないはずよ」
「なんと! それは有りがたい!」
「誰か信頼できる人に渡してちょうだい。毎回貴方が来るわけじゃないのでしょう?」
 エリアーヌの言葉にオロフは何度も頷くと、大切そうにそれを隣の男に手渡した。
「ユーグ、これをお前に。エリアーヌの信頼を裏切らぬよう、よろしくのう」
「はい。お預かりします」
 これにぎょっとしたのは他ならぬエリアーヌだった。
「ちょっ、待って! あの、彼をよこすつもりなの? その……失礼だけど、彼はただの用心棒じゃなかったの?」
 エリアーヌの疑問にオロフはにこやかな笑顔で答えた。
「ユーグは確かに魔法の徒ではないし、剣が得意じゃからうちの用心棒も勤めてくれておる。じゃがそれ以外の仕事も色々と任せておるんじゃ。うちの店で働く者には魔法と縁遠い者も大勢おるしの。それに何より彼は信頼できる男じゃよ」
「俺は確かに魔法使いじゃないけれど、荷物を運ぶだけなら魔法使いよりは信用できますよ。力には自信があるしね」
 ユーグは人好きしそうな笑顔でにっこりと笑った。けれどエリアーヌは厳しい顔を崩さなかった。
 しかしそんな彼女を宥めるようにオロフがさらに続ける。
「うむ、それに今は魔法や薬を扱える者は皆出払っておってのう。あちこちで患者の看病や薬の開発に協力しとる」
 要するに人手不足という事らしい。
 エリアーヌはこれ以上言い募ってもみっともないだろうと諦め、またこぼれそうになるため息を懸命に堪えて仕方なく頷いた。
「……わかりました。仕方ないわね」
「ありがとう! あ、そうだ、良かったら水汲みも手伝うけど……」
「結構よ。泉には番人しか近づいてはいけないの。貴方は毎日午後に瓶を受け取りに来てくれるだけでいいわ」
 エリアーヌはできるだけきっぱりと事務的に告げたが、男はそれにも笑顔を返しただけだった。
「そっか……ならしょうがないな。重たい物を女性に何度も運ばせるなんて本当に申し訳ないけど、よろしくお願いします」
「すまんのう、エリアーヌ」
「……いいえ。では次は明後日に」
 エリアーヌはオロフに微笑を返すと彼らに別れを告げた。
 二人は口々に礼を言い、よろしくと告げて馬車に乗り、森の小道を帰っていった。
 二人の姿が見えなくなった後、エリアーヌが深い深いため息を吐き出したのはいうまでも無かった。
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