一月の森の春
3
「お名前は?」
 作業場への扉を開きながらエリアーヌは少年に問いかけた。
「ニ、ニコラです!」
「良い名前ね。ケネットの息子さん?」
「あ、いえ。えっと、甥なんです。母さんが伯父さんの妹だから頼んでくれて、先月から伯父さんのところに徒弟に入ったばっかりで」
「そう。なら将来は伯父さんのような商人を目指すのね」
「あ……は、はい。本当は……僕、魔法使いになりたかったんですけど、あんまり才能ないみたいで。両親が、そうしろって」
 少年はエリアーヌの作業部屋を眺め回してため息を吐いた。
 北向きの窓しかない作業部屋は昼間でも薄暗い。
 天井には様々な草や木の枝が束になって吊るされ、良い香りを放っている。
 机の上には様々な用途の良くわからない道具が所狭しと並び、部屋に幾つもある棚も大きな保存瓶や色とりどりの小瓶、ガラスケースに並べられた石などで埋まっている。窓から遠い一角には、よく使うらしい魔法や薬に関する本を並べた本棚が壁を埋めていた。
 少年にとってここは自分が憧れた魔法の徒の秘密の部屋のように感じるのだろう。
 それが良くわかるエリアーヌは、それ以上何も言わず、テーブルの上に並んだ木箱の一つを彼に手渡した。
「これを外に運んでくれるかしら。瓶が入っているから、そっとお願いね」
「あっ、はい!」
「まだ沢山あるから、また戻ってきてちょうだい」
「わかりました!」
 気を取り直したらしい少年は、木箱を受け取ると慎重な足取りでそれを運んでいった。
 
 その後姿が見えなくなってから、エリアーヌは小さなため息を吐いた。
 魔法の道を歩けるかどうかは、結局の所本人の資質次第だ。
 そしてそれは他人がどうにかして救ってやれると言う類の話ではない。
 憧れた道を諦めた者は沢山見てきたが、ニコラはその中では幸運な方だろう。
 商売で成功している伯父を持ったおかげで、早くから徒弟に入りこうして別の道を学ぶ事が出来る。
 大事な仕入れ先に連れてくるぐらいだから、ケネットが甥を可愛く思っていることはうかがい知れた。
 懸命に学べばいつかは独立して自分の店を持ったりできるかもしれない。
 それは夢を持って魔法を長い時間かけて学び、けれど結局挫折して他の道を行くしかなくなった者達よりもある意味恵まれている。
 いずれは少年の胸に残った小さな痛みも消え去り、別の道に楽しみを見出す事が出来るだろう。
「早くそうなるといいわね」
 小さく呟いて、エリアーヌは樹皮や薬草の束を入れた袋を手に自分も部屋を出た。
 
 



 エリアーヌとニコラが部屋と外を数回往復して商品をすっかり運び出した頃、ケネットとオロフの交渉も終わりを迎えていた。
 今回は二人の商売が被らない事もあって交渉はすんなりと進んだらしい。双方共に望みの物を仕入れられそうな予感に顔を明るくしている。
 エリアーヌは最後の袋を雪の台の上に置き、二人に顔を向けた。
「話は済んだかしら?」
「ああ。良いとこで手を打てたよ。今んとこ俺が受けてる注文の中には材料はねぇんだ。そっちは全部オロフの爺さんに譲ることにした」
「その代わり、わしはあんたの作った夏用の商品の類は全部ケネットに譲ろう」
「それがいいわ。北風の小瓶は雑貨屋で喜ばれるから。魔法道具屋に買い物に来る人達は自分で風を起こせる人も多いでしょうしね」
 そう言ってエリアーヌは台の上の木箱の一つを開けて中身に手を伸ばした。中は薄い板で細かく区切られ、区切りの一つ一つにコルク栓のはまった手のひらほどの高さの青い瓶が入っている。
 
「ケネット、これが今回の分。暑い部屋を一気に冷やす《冷たい北風》が四十と、ゆっくりと冷やす《涼しい北風》が五十。今年は猛暑だって聞いたけど相変わらず?」
「おお、結構あるな! 今年は随分暑いんだ。寝苦しい夜が続いて皆参っちまってる。助かるよ」
「暑いのね……そう。どちらの瓶も効果は蓋を開けてから三日ほど持つわ。使わない時は蓋をきつく閉めておけば、もう少し持つわね。けれど、夜寝る時は出来れば《涼しい北風》を使うのが良いでしょうね」
 
 エリアーヌは雪や風、水などを操る魔法が一番得意だ。
 十を数える頃からこの森に住んでいるせいもあり、実に巧みにそれらを操る。
 彼女は一月の森に年中吹きすさぶ冷たい風を捕まえては瓶に詰め、それを暑い夏を涼しく過ごすための道具として売っていた。
 彼女の作るそれらの道具はいつでも大層評判が良い。
 同じような物を街で作って売っている魔法使いもいるのだが、熱い空気の中で涼しい風を起こすより、森に満ちている冷たい空気を集めた方がはるかに簡単で沢山作れる。
 加えて、こうした商売をほんの暇つぶしとしてやっている彼女は、それを安価で提供するので喜ばれるのは当然だった。
 だから商人達は、主に夏を中心に彼女の所に足繁く通い、それらを分けてもらう事を待ち望んでいるのだ。
 
「あと、こっちは雪枕よ」
 そう言ってエリアーヌが別の箱を一つ開けた。そこには可愛らしい花柄の布袋に、魔法陣の書いた札を貼った奇妙な物がぎっしりと詰まっていた。
「おお、新商品だな」
「ええ。暑さで子供が眠れないっていう話を聞いたものだから。この中には溶けないようにした雪を詰めてあるの。タオルを巻いて、枕の上に置いて使えば首がひんやりと涼しいわよ。効果は大体十日ほどね。布が濡れ始めたら雪が溶けて来た証だから使うのを止めるよう言ってちょうだい」
「ふむふむ、こりゃ人気が出そうだ」
「これが全部で二十ね。袋を縫うのが大変であまり沢山は作れなかったの」
「じゃあ、袋がありゃもっと作れるのかい?」
「そうね、雪を詰めて魔法をかけるだけだから面倒は少ないわ。札を作るくらいかしら?」
 それを聞いた途端ケネットの目が抜け目なくきらめいた。
「よし、なら大至急同じような小袋を作らせて、空のまま納入しよう! それなら次はもっと貰えるかい?」
 しっかりものの商売人にエリアーヌは苦笑を浮かべて頷いた。
「ええ、いいわよ。出来れば袋の口は縫わなくていいように紐か何かつけてちょうだい。それならもっと楽に済むわ。袋を持ってきてくれたら、袋の分は値引きするわよ」
 ケネットは真剣に袋を眺めると、わかったと何度も頷いた。
「ほほう、それならその袋に貼る札用の丈夫な紙がいるんじゃないかね?」
 不意に口を挟んだのはオロフだった。
「あらあら、私のお客はしっかり者の商売人ばかりね。じゃあそれは貴方にお願いする事にするわ」
「そうしてくれると嬉しいね。丁度今日は持ち合わせがあるんじゃよ」
 エリアーヌはオロフとの話は後にして、先にケネットと値段の交渉をする事にした。
 
 ケネットはエリアーヌが提示した卸値を素直に飲み、自分が運んできた食料などと合わせて相殺を計算した。
「あんたの商品が合わせて五十五シル。俺が持ってきた食べ物他は合わせて三十六シルと62コルだ。じゃあこれが差額だ。まいどあり!」
 ケネットはそう言って大きな銀貨を二枚エリアーヌに渡した。一枚十シルの大銀貨だ。
「あら、多いわよ?」
「おまけだよ! 切りがいいだろ。あんたはいつも随分安く卸してくれるからな。たまにはお返しさ」
「そう、ならありがたく受け取るわ。こちらこそ、毎度どうも」
 エリアーヌは銀貨を笑顔で受け取り、それを皮袋へと落とした。乏しくなっていたこの中身を使わずに済んで良かったと密かに胸を撫で下ろす。
 もし足りなくて、暑い中街の銀行にいく羽目になったらどうしようかとちょっと考えていたのだ。
「じゃあ私の買い物は全部裏の食料庫に運んでおいてくれるかしら」
「おう。中身は確かめなくていいのか?」
「その点は貴方をちゃんと信頼しているわよ、ケネット」
 笑顔を向けられてケネットは困ったように頭をかき、肩をすくめた。
「おお、怖い。もし中身が悪くなってたりしたら、森からうちまで呪いが飛んできそうだ」
「あら、そんなことしないわ。せいぜい、貴方の家の扉がある朝ちょっぴり凍り付いて、その日は商売ができない程度よ?」
 それが何より怖いんだ、と笑いながらケネットはニコラと共に食料の詰まった袋や箱を持って家の裏へと歩いていった。
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