一月の森の春
1
 エリアーヌ・ジャンヴィエは夏の暑さがとても嫌いだった。
 熱気を帯びた空気は細い体から体力を奪って煩わしいし、眩しい日差しはその白い肌をチクチクと突き刺す。
 いつも背中に垂らしたままの長い銀の髪は汗をかくと途端に首筋に鬱陶しく纏わりつき、自分の制御を離れるような気すらする。
 彼女のクローゼットに入っている白や黒のローブも夏向きとは言えない。白は光を反射して彼女の目を一層眩ませるし、黒は光をたっぷりと吸収して、ローブにかかっている気温変化を軽減する魔法を無意味だと感じさせる事があるからだ。
 
 だから彼女は夏の間は決して自分の住む森から出る事はない。
 幸いにしてこの森には夏の間にこそ売れる商品があるので、それを買いに来る行商人は後を絶たない。
 エリアーヌにとって彼らだけが、外界と自分を繋ぐ細い細い糸と言えた。
 そういう理由で、彼らには少しばかり感謝もしている。彼らが届けてくれる食料がなければ、この森では暮らしていけないのだから。
 そう、少しは感謝している。
 例えその中の一人が、エリアーヌが夏の暑さと同じくらい嫌いな、暑苦しく図々しい男だったとしても。
 




 
 
 エリアーヌは細く白い指で、小物棚の上に置かれた木の暦表をカタン、とめくった。
 暦の数字は八月を示している。
 エリアーヌが大層嫌いな真夏の季節の到来だ。
 彼女は面白くなさそうに少しばかり眉を寄せ、一つため息を吐いた。
 ハァ、と吐かれたため息はたちまち白く濁って広がり、そして消えていく。
「今日は少し寒いわね……夏場は調節が難しいわ」
 白く濁る息を見ながらエリアーヌは居間の暖炉に近寄り薪を足した。さっき熾したばかりの火はまだ部屋中に暖かさを届けるには弱々しい。
 暖かな炎に手をかざしながら、彼女は寝起きの頭をゆるゆると振った。
「今日は行商人が来る日だったと思うけど……面倒くさいわねぇ」
「マスター! まーたそんなこと言って!」
 彼女の小さな呟きに対して、突然背後から大きな声が上がった。
 エリアーヌは驚きもせず静かに首を回してその発生源を探す。
 振り向いたその目に映ったのは、彼女の後ろの足元近くに立っているふさふさした毛皮を着込んだ一匹の大きな白い犬だった。
「頼みますよマスター! もう小麦粉が少ないって、一昨日言ってたじゃないですか!」
「あら、おはようドニ。いたのね」
「さっきからいましたよ! 大体もうお早うって言う時間でもないんです!」
 
 ドニと呼ばれた白い犬は、どこから出しているのか少年のような可愛らしい声で主にきつく抗議した。ふわふわの長い尻尾をぱたんぱたんと不機嫌そうに揺らしながら、水色の瞳で主をじとりと見つめる仕草が何とも愛らしい。
「もう遅い時間なの……じゃあドニもお腹が空いているわね」
「そうです! って、そうじゃないんです! ちゃんと面倒がらずに食料を仕入れてください! もうすぐお昼だから、そろそろ誰か待ってますよ!」
「そう……仕方ないわね。じゃあ今日はちゃんと商売をするわ」
「そうして下さい!」
 エリアーヌは足元に纏わりつくドニに頷きを返しながら、傍らのテーブルに置いてあった鍋を手に取った。
 暖炉の炎は丁度良い大きさとなり、部屋は徐々に暖まってきている。昨日の残りの冷え切ったシチューが入った鍋を火にかけ、ドニに番を命じてから、エリアーヌは壁にかけてあった白い毛皮の外套を持って、室内履きからブーツに履き替え部屋を出た。
 暖かい居間から玄関に移動すると、その寒さに小さく震えが走る。
 彼女は急いで黒いローブの上から外套を着込み、扉のかんぬきを上げて外に出た。
 
「眩しい……」
 途端に目に飛び込んできた白い光にエリアーヌは思わず目を瞑った。それでも足りずに瞼を手で覆い、それから少しずつゆっくりとそれを外していく。
「今日は天気が良かったのね……寒いはずだわ」
 そう呟く彼女の目の前に広がるのは、一面の白い雪景色だった。
 結界が張られた彼女の家の周りだけが、茶色や緑の地面を覗かせている。
 雪は彼女の膝上くらいの高さまでどっしりと積もっていた。
 その周りはと言えば白い雪原をぐるりと囲む、白い白い森。雪を被った木々は白くもっさりと膨らんでいる。
 この家から森の入り口へと続く細い道も完全に雪に覆われ、その位置さえ良くわからない。
 昼が近くなった日差しを雪が反射してたまらなく眩しい。
 
 しばらくしてようやく目が慣れたエリアーヌは外套の襟元を手で押さえながら、森の入り口へと続く小道があったはずの場所へ歩み寄った。
 彼女は雪に覆われた地面を確かめるようにしばらく睨むと、スッと右手を前方に向かって声を上げた。
「我は一月の森の番人、エリアーヌ・ジャンヴィエ。森に吹く北風よ、番人たる我が命を受け、この雪を彼方まで切り裂く一筋の道をここに拓け」
 びゅぅ、と突然の突風が彼女の髪を打った。
 銀の髪でしばし遊んだ風は激しさを増し、彼女が示す方向へと地を這うように吹きすぎてゆく。その激しい風は地面に積もった雪をたちまち削り、吹き飛ばした。
「……ん。こんなもんかしらね?」
 誰にともなく小さく呟いたエリアーヌのその視線の先には、馬車が通れるくらいの細い道が雪を取り払われて姿を現していた。
 この道は森の入り口までずっと続いている。
 雪が取り払われて道が開いていたら、彼女が森に客を招きいれる証なのだ。
 けれど森の入り口からこの家までは馬車に乗っていても二時間ほどはかかる。
 道が開くのは一瞬だが、客が来るのはまだ少し先だろう。
「さて、じゃあその間に食事にしましょう」
 お腹を空かせた可愛い使い魔が騒ぎ出す前に、と考えながら彼女は家へと向かって歩く。
 
 この森の景色はいつも変わらない。
 ここは一月の森。
 一年中雪の季節しかやってこない、魔法の森。
 その森の番人たる銀の魔女は小さな欠伸を一つして、薄青の瞳を同じ色の空へと向けた。
 今日は良い天気が続きそうだった。
 
 
 
 昨日の残りのシチューを少し薄め、千切ったパンを投げこんだ物をドニは嬉しそうに食べていた。
 その傍らでエリアーヌは憂鬱そうに自分用の薄めていないシチューを口に運ぶ。
 少し固くなっていたパンはドニに上げてしまったので彼女は作り置きのビスケットを齧っていた。
(今日は確かに小麦粉を買ってパンを焼かなくちゃいけないわね……)
 食料庫の備蓄を思い返しながらエリアーヌはため息を吐いた。
 
 彼女がこの森で番人として暮らし始めてもうそれなりに長い時間が経つ。
 この冬森での暮らしは決して便利とは言いがたいが、中でも一番困るのはなんと言っても食料だ。
 一月の森で採れる食物は本当に種類が限られている。
 雪の中でもゆっくりとだが育つ常緑樹の新芽や小さな木の実。
 煮詰めると甘いシロップになる樹液や、凍らない泉と小川の近くに生えるわずかな山菜や薬草。
 後は、エリアーヌが家の脇に作った温室で取れるわずかな作物くらいだろう。動物も少しはいるが、エリアーヌは彼らを獲ったりしない。
 だからその他の生活に必要な全ての品を、外からやってくる行商人に頼るしかない。
 本当は、森を抜ければその出口から見える距離にトレーズという大きな街があるのだから、自分で買い物に行けない事はない。
 森の番人ならほんの一跨ぎで森から出ることができるし、そうすれば街までは歩いてもほんの一時間ほどだ。
 だが暑さが嫌いな彼女にとって、夏場に外に出ると言う選択肢は端から存在しなかった。
 そういう訳で、いくら面倒くさがりのエリアーヌでも、定期的に外から商人達を招き入れる事を止めるわけにはいかないのだ。
 
 シチューを食べ終えたエリアーヌは席を立ち、小物棚の引き出しを開けて奥から小さな革袋を取り出した。中からはちゃり、と金属の擦れ合う音がする。
 袋を開け、その中身の銀貨や銅貨を手の平に乗せて数え、エリアーヌは軽く眉を寄せた。
「うーん、ちょっと足りないかしら?」
「そうですよ。マスターったら最近商売も買い物もサボってるから。夏って言うと銀行にも行かないし!」
「そうねぇ。そういえば給金も随分受け取ってないわね」
「せっかくの国からの支給金なのに、銀行に預けたままだなんて! たまにはぼくに骨付き肉でも買ってくださいよ!」
 ドニはぷりぷりと尻尾を振って不満を表した。
 
 十二の魔法の森の番人は、森と契約して番人に就任する。その選択にも継承にも、国はほとんど関わってはいない。
 大抵は、先代の番人が弟子を取るなり、誰かを推薦するなりして決まるのだ。たまに森にすごく気に入られたとか、森を気に入って番人が根負けするまで弟子入りを頼み込んだとかそういう者もいる。
 森の番人はこの国の魔法の徒にとってとても名誉な仕事だ。憧れる者はかなり多い。
 だが、憧れは憧れ。現実はと言えば――
「うちの森なんて夏場しか人が来ないんですから、今のうちにちょっとは備蓄を増やしてくださいよ!」
「うーん、そうねぇ。まぁ、一年中雪に埋もれて寒いだけの森なんて、普通は嫌よね。暑い夏じゃなかったら誰も来ないものね」
「だからその為に国がちゃんと一年暮らせるだけのお金を支給してくれてるんでしょう? ちょっとは使いましょうよう!」
「はいはい、わかりました」
 使い魔の悲痛な声に根負けして、エリアーヌはその頭を撫でて宥めてやった。
 確かに食べ盛りの大きな犬に、毎日が肉なしシチューの生活は辛いかもしれない。
 
 番人になりたい森の番付がもしあるとしたら、この一月の森は確実に下から三番以内には入るだろう。
 そういう不人気な森で継承者がいなくなるという事態を防ぐ為に、国は森の番人に選ばれた者に十分すぎるほどの給料を年単位で前払いしてくれている。
 森の番人を五、六年勤めれば、特に節約した生活をしなくても、街に工房や店を開いたりして独立できるくらいだろう。
 当然エリアーヌも街の銀行に行けば、彼女のために用意された口座から結構な額のお金が受け取れる。
 けれど、夏場は森の外に絶対出ない、冬も面倒、春と秋ならまだ行商がやって来るから別にいい、と彼女は何かと理由をつけてごくたまにしかそれを受け取りに行ったり、外で買い物したりしないのだ。
 国からの支給金は毎年銀行の金庫の中で嵩を増すばかりだ。
 よって、それを良く知っている長い付き合いの使い魔の嘆きも年々増して行くばかりだった。
 
「どうして使い魔にぼくを選んだんですかぁ……もっと小さいのでも良かったんでしょう? ぼくがもし鼠だったら食べる量は少ないし、ふくろうなら自分で遠くまで狩りにいけたのに!」
「あら、だって。梟じゃ一緒に寝てくれないし、猫は寒さに弱いから可哀想でしょ。カエルは冬眠しちゃうし、鼠は素早すぎて苦手なの」
 ドニはそれを聞いてがっくりと首を垂らした。よもや自分が消去法で選ばれた使い魔だとは思っても見なかったらしい。
「そんなにがっかりしないでよ。大丈夫。この間薬草や薬になる樹皮も沢山採ってきたし、夏に喜ばれる魔法を込めた小瓶を沢山作っておいたしね。食料をたっぷり仕入れるだけの商品は用意してあるわ」
「ほんとですかぁ?」
「本当よ。大きな骨付き肉を買ってあげるから。ね?」
「約束ですよ!」
 ドニはその約束にたちまち元気を取り戻し、尻尾をパタパタと嬉しそうに振った。
 それを見てエリアーヌも頬をほころばせる。
 犬の使い魔は他の動物と違っておしゃべりで騒々しい、と敬遠する者も多いのだが、こうして感情表現が豊かな所はとても可愛かった。
 
 シチューの皿を流しに置き後で洗う事にして、彼女は仕事部屋への扉を開けた。
 行商人が来る前に品物を揃えようと棚を開けたり、品物を箱に詰めたりする。
(今日は誰が来るかしらね?)
 エリアーヌの商売相手は、街に小物などを卸す問屋か、魔法薬の材料を直接安く仕入れたいという魔法の徒がほとんどだ。
 大抵は馴染みの顔が来るが、時々は知らない人が噂を聞いてふらりと訪ねて来る事もある。
(あの男じゃなければいいけど)
 涼しい北風、と書いた小さな紙を可愛い瓶に糊で貼り、エリアーヌは朝から何度目かのため息を吐いた。
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