22:森の王

 アーシャは黙々と森の中を西に向かって歩いていた。
 歩いている、というよりは、もはや走っているといってもいいような速度だ。
 張り出した木の根や段差を飛び越え、時には木の枝に掴って渡っていく。
 四人と一緒に歩いていた時とは比べ物にならないくらい早い。
 この分なら予定通り昼くらいには目的地に着くはずだった。
 アーシャが歩いていく側を熊が通りかかった。
 だが熊は彼女をちら、と確認しただけで興味を失ったように歩き去っていく。
 熊には彼女の姿が、リスなどのように小さすぎて腹を満たす対象にならない生き物に見えているかのような態度だった。

 勿論、森の精霊が彼女の願いを受けてそう見せてくれているのだ。
 アーシャはそんな風に、森の小さな生き物の一員になって森を走り回るのが好きだった。けれど同時にそんな自分を少しずるい、といつも思ってきた。
 彼女は森の生き物を食べるのに、森の生き物からは食べられないように精霊の力を借りている。
 そんな、森の命の連鎖から外れた自分がずるい気がしていた。
 それを育ての親に言うと、彼は困ったように笑っていた。

『それは仕方ないじゃろう。アーシャは人間なのじゃから。牙や爪の代わりに知恵を使って生き延びるのが人間のやり方じゃ』

 精霊に力を借りるのはずるい事ではないよ、と優しい声は何度も言った。

『生き物は何だって自分の持てる力を使って、他を喰らい、食われぬようにして生きていく。その力が衰えた時が、その身を地に返し、闇の神の御手に還る時じゃ。それまではどの生き物も、精一杯生きる義務がある』

 だから諦めないでおくれ、と何度も願うように告げられた。

『命としての役目を果たし、闇の神が迎えに来るまで生きるのだよ。ただ失うことに慣れてはいけない。理不尽に奪われる事を受け入れてはいけない。精一杯、生きなさい』

 今の自分は、失った事から始まった命だった。
 それでもまた与えられたものを、今度は奪われて、失った。
 もう失いたくないと思う気持ちは、もう得たくない気持ちへと繋がっていた。その気持ちのまま、ただ生きてきた。
 そして今、ここにいる。

 この森に来て、どこにも仲間の気配を感じられないほど彼らから離れたのは初めてだった。
 人間の気配はどの動物とも違う独特のものだから近ければアーシャにはすぐにわかる。
 動物のように澄んでいたり、研ぎ澄まされたりしていない、雑多で騒々しい混沌を含んだような気配。
 学園にいた時は、どこに行っても感じられるそれがうっとおしくて仕方なかった。
 だから、少しでも人気の無い所を選んでは昼寝ばかりしていたのだ。
 こうして一人で森の中にいると周囲には密やかな生き物の気配が漂うだけでとても静かだ。でも、同時にそれを少し物足りないと思うのはどうしてだろう。
 最初の夜、他人のいるテントで眠れなくてこっそり木に登って眠った。
 けれど、今では隣で眠るシャルの寝息を聞くとなんだかほっとする。
 人の気配を温かいと思ったのは初めてだった。

 アーシャは森を歩きながら幾つもの問いかけを自分に投げかけていた。
 一人で歩く森の景色が、以前ほど輝いてないのは何故だろう。
 精霊の歌が前ほど眠りを誘わないのは何故だろう。
 一刻も早く、行って帰ってきてやりたいと思うのは何故だろう。
 考えても考えても、答えは遠い。

(……わからない事ばっかり)
 答えが出ないまま、アーシャはただひたすら西を目指して歩き続けた。



 太陽が頭の上に近くなった頃、アーシャは突然森を抜けた。
「!」
 繁みを掻き分けて踏み出した途端に、固い地面に足がついたのだ。
 その感触にびっくりして踏み出した場所を良く見ると、草に埋もれてはいるが平らな石が薄っすらと見える。
 目の前を見渡せば、森の中にぽっかりと石畳が敷かれた空間が広がっていた。
「……ついた、のかな?」
 恐る恐る繁みを掻き分け、石畳を踏みしめる。
 久しぶりに踏む人工的な地面はなんだか落ち着かない。
 森は整然と並べられた石畳によって広く半円に切り取られ、見上げれば青い空が見えていた。
 アーシャの出てきた所から広場を真っ直ぐ西へ進んだ突き当たりは切り立った崖になっている。
 崖はどうやら山の一角らしかった。
 その切り立った崖の一部におかしな色の部分が見える。
 茶色い岩肌から浮かび上がるように、一部分だけが長方形の緑色をしているのだ。

(あれが石版かな?)
 きっとそうだろう、と思いアーシャは歩みを速めた。
 念のため周りを見回して危険はないか慎重に確認しながら歩く。
 切り立った崖の上から吹き降ろす風が強くて、体重の軽い彼女には歩きにくいという以外は何も障害はなさそうに見えた。
 そのまま身を低くして風に耐えながら歩く。
 不意にその頭上に影がさした。
 ハッ、と気付いた時にはもう遅かった。
 バサバサッと大きな羽音がして次の瞬間強い風が小さな体を襲う。
「っ!!」
 とっさにその場にしゃがみこみ身を縮めたが、あまりの風の勢いに 一瞬体がふわりと浮く。何が現れたのか確認しようにも目も開けられない。
「うっ、ひゃぁ!?」
 アーシャはそのまま風の勢いに負け、今来た方に飛ばされた。
 せめて少しでも衝撃を小さくしようと頭を腕でかばってできる限り身を縮める。
 ごろごろと転がった体がドン、と何かに当たった。
「……」
 じっと身を丸めたまま耐えたが、それ以上の衝撃は起こらない。
 ぶつかった物もあまり固くないもののようで体はそんなに痛くない。
「……?」
 静かになったことをいぶかしんでアーシャはそっと目を開けた。
 いつの間にか風も弱くなっている。
 目を開けて、最初に視界に入ったのは何だかよくわからない茶色と白のものだった。
 大きな白が目の前を覆い、大きな茶色に自分の体が寄りかかっている。
「……っ!?」
 それが何なのか気づいた瞬間、アーシャの顔から流石に血の気が引いた。
 彼女は今間違いなく、何か大きな生き物の懐にいる。
 何故なら寄りかかっている茶色い物はどう見ても毛皮で、しかもほんのりと暖かい。
 上を見上げるのがたまらなく怖い。が、そのままでいる訳にもいかない。
 アーシャは恐る恐る後ろを向き、そっと視線を上に向けた。
 金色の巨大な瞳と目が合う。背中を冷たい汗が流れた。
 巨大な目は面白そうに目の前の小さな生き物を眺めている。
 アーシャが転がらないよう支えてくれていたのは彼(?)の茶色く太い左前足。
 アーシャを風から守るように覆ってくれていたのは、真っ白い翼。 
 今彼女を見つめているのは精悍な鷲の顔。
 アーシャはその生き物を知っていた。
 育ての親が色々な事を語って聞かせてくれた中に登場し、学園の図書館で読んだ古い書物でも見た事のある生き物。
 鷲の頭と獅子の体を持つ、力強く賢き獣。
 時に欲深い人間を罰する事もあるという、それは。
「グ……グ、リュプス?」
 つまるところそれは、いわゆるひとつのグリフォンだった。



 グリフォンは、その横たえた獅子の体の脇にアーシャを捕らえている。
 アーシャは古い本で読んだはずのその幻獣の特徴を思い出そうと必死で考えた。
 だが空回りする頭からは役に立ちそうな事が何一つ出てこない。
 珍しく彼女は非常に焦っていた。
 流石に何の準備もなく、いきなり相手の懐に迎え入れられるとは思っても見なかったのだ。
(こ、言葉って通じるんだっけ? 現代語? 古代語? ああ、でも何を言えば……)
 何かしなければ、と焦りまくった挙句ようやく口を突いたのは、至極平凡な言葉だった。

『こ……こん、にちは』
「……」

(は、外した!?)
 やっぱりだめか、とアーシャは必死で退路を探ったがとても見つかりそうに無い。
 猫の前足に捕まえられたねずみとはこういう気分だろうか。
 サイズ的にも近い比率だな、と現実逃避したがっている頭のどこかがそんな事を呑気に考えた。
 不意にぐい、と大きなくちばしが彼女に近づいた。
(ひゃぁぁぁ!)
 ついに自分も連鎖に組み込まれる時が来たのかとアーシャは本気で覚悟して固く目を瞑る。
 ぶふぁ、と生暖かい息が顔にかかる。

『こんにちは』
 頭の中に響いた声は雄々しく、落ち着いていた。
 その声の意味が一瞬分からず目を開ければ、自分を見つめたままの金の瞳とまた目が合った。
「……え?」
 グリフォンは良く回る首をぐるりと傾げるとアーシャの反応を確かめるような顔をした。
 そしてまたアーシャの内に声が響く。
『ふむ、すまんが少し離れてくれるか? 我は近いとよく見えないのだ』
「う……あ、は、はひ!」
 どうやら声の主は間違いなく目の前のグリフォンらしい。
 アーシャは転がるようにその前足の上から抜け出した。
 心臓がバクバクとうるさい。
 こんなにドキドキしたのはものすごく久しぶりだ。
 アーシャがヨロヨロと抜け出すと、グリフォンは翼をたたみ、のっそりと立ち上がって今度は体全体で風をさえぎる位置に座った。
 少し離れるとようやくその体の大部分がアーシャの視界に納まる。
 改めてその姿の全景を見る。
 それはとても大きく、力強く、美しかった。
「綺麗……」
 ぽかんと見上げるアーシャを鳥の瞳が面白そうに見つめる。

『これはまた、随分小さなお客が来たものだ。しかも我が声が聞こえるとは。そなた一人かね?』
 また頭の中に声が響いた。
 どうやら彼は声帯ではなく念話を使うようだ。
 戸惑いはしたが、幻獣の事はほとんど何もわかってないに等しいのだからそういうこともあるのだろうと無理矢理納得する。
 精霊の声も同じように耳ではないところで聞いているのでそれと同じだと思えば順応も難しくない。
『う……ん、えと、仲間は森に、あ、あの、私はアルシェ……グラウルの娘、アルシェレイア、です』
 アーシャは古代語の丁寧語を一生懸命思い出しながら口に出し、慌ててペコリと頭を下げた。
『これは丁寧にどうも。我らの言葉も使えるとは、ますます驚かされる。生憎我は名前を持たぬが、好きに呼ぶと良い。かしこまらなくてもかまわぬ』
『う、うん、あの、助けてくれてありがとう』
 アーシャの言葉にグリフォンは軽く首を振った。
『元はと言えば我が急に降りてきて飛ばしてしまったのだ。まさかこんなに小さな者が来るとは思わなかったから、すまなかった』
『ううん、びっくりしたけど大丈夫、です。あの、貴方がこの森の主?』
『まぁ、そうだな。この森は私の狩場だ。普段は山の上に住んでいる』

 それでか、とアーシャは頷いた。
 川を渡ってから何度か森に、奥地のことについて聞いたのにグリフォンの事など木々は言わなかった。
 普段居ないならわからなかったのも頷ける。
『学校の課題とやらで来たのだろう? 何故一人なのだ?』
『課題って……そんな事まで知ってるの?』
 驚くアーシャにグリフォンは大きく頷いた。
『ここは元から私の狩場の一つだったが、少し前に人の魔道士がやってきた。
 この森の調査に来て我と出会ったのだが、彼は私と言葉が通じる者だった。それが学園とやらの創始者の一人だ』
 アーシャは目を見開いた。
 学園の歴史はもう百年を越える。
 それを少し前と言うのはさすが幻獣というべきだが、創始者と出会ったというのも驚きだった。

『我等は気が合ってな、簡単ではあるが契約をしたのだ。
 彼は森を包む結界を張り、ここを保護する。我はこの森を学園とやらに貸し与え、森に入ってきた子供らに軽い試しを与えると』
 そういってグリフォンは嬉しそうに羽をばたつかせた。
 アーシャはその風圧で少し後ろへ押されたがどうにか踏ん張った。
『思えば彼以来だ。我と話ができる者が訪れたのは』
『い、いつもはどうしてるの?』
『簡単だ、我は先ほどのようにここに舞い降り、そして動かない。
 子供らが通じなくても話しかけたり、挨拶をしたりすれば合格。黙って飛び去るのみだ。
 そっと脇を通り抜けるのも良し。何も言わず攻撃してきたら不合格で、適当にあしらって追い返す』
 やはり、とアーシャは思った。
 もし知恵ある獣がいるのならきっとそういう趣旨の課題なのだろうと思っていた事はどうやら正解だったらしい。
 これなら、後は石版の文字を写させてもらうだけでいい。
 しかし、安心したのは一瞬だった。
『そこまでで、半分は合格だ』
『え?』
 それはどういう意味なのか、と問う前にグリフォンがゆったりと立ち上がった。

『後は自分の目で確かめるが良い。珍しい人の子よ』
 彼はそういうと石版の方へと歩き出す。
 翼を半分広げて風を遮ってくれている所を見ると付いて来いということらしい。
 アーシャは慌ててその後を追った。
 少し歩くと岸壁がどんどん近づいてくる。
 崖の目の前までくると、それは見上げると首が痛いほどの高さだった。
 視線を戻すとその下の方に、アーシャの二倍くらいの大きさの巨大な緑の石版が崖の壁に埋め込まれるようにして張り付いている。
 石版はつやつやと輝き、半透明の美しい緑色だった。
 表面には古代文字が書き連ねられている。
『綺麗な石……これが、課題の石版?』
『そうだ。これは我からの試練であり、贈り物。さて、これが読めるかねグラウルの娘』
 アーシャは二、三歩離れて大きな石版を見上げた。
 掘り込まれた文字を一つ一つ目で追う。

『え……と、我が 慕わしき 風の兄上、我ら……我ら幼子の』
 ぶつぶつと声に出して文字を追い、最後の行に差し掛かった時アーシャの目が見開かれた。
『これ……これは』
『わかったかね?』
『……写すだけでは、ほんとの正解じゃないんだね。でも、これじゃ……仲間を、シャルを、ここまで連れて来なきゃいけない』
『正解だ。過去、この文字を読み、本当に課題を解いた者達は数えるほどだ』
 文字を写すだけなら意味が判らなくても書き写せばいい。
 だから、大半の学生は意味も判らないままそれを写して帰ってしまったのだろう。
 だが、この文字は最後まで読めばそれだけでは駄目な事がわかる。
 書かれている事はとても簡単だった。読めさえすれば別に難しいことではない。
 ただそこに書かれている事を行う為には仲間全員がここまで来なければいけない。
 たったそれだけの事が今の彼らには何より難しい。
(……シャル)
 アーシャは胸の内で今誰より頑張っている彼女の名を呼ぶ。
 また難題が増え、途方にくれた気分だった。
 思わず膝を抱えてその場にしゃがみこむ。
 その様子をグリフォンは面白そうに眺めていた。
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