20:少年の決意(後)

 ジェイがシャルと初めて会ったのは零歳の時。
ちゃんとお互いの事を覚えているのは二歳か三歳になった頃になってからだ。
 親兄弟に捨て置かれ近所に同年代の友達も居ない孫達を心配して、友人だった二人の祖母がお互いの家を訪ねては度々引き合わせたのだ。
 ジェイの思い出の中のシャルは、小さい時から乱暴で横暴な幼女だった。
 今までに一体何度泣かされたことか、もう数えるのも虚しい。
 それでも、自分と同じくらいの大きさで、自分の目を真っ直ぐに見てくれるシャルと会うのは子供のジェイの何よりの楽しみだった。
 
 ジェイはその頃ずっと実家の離れで祖父母と乳母と一緒に暮らしていた。
 小さい頃のジェイは泣き虫で、四つ上の我侭な姉に苛められ、からかわれては良く泣かされていた。
 だからジェイにとって家族とは優しい乳母と愛嬌のある祖父母で、友達と言えばシャルだった。
 それ以外の人間とは、たまにすれ違ったり、自分の気分で理不尽な小言をぶつけてきたり、突然やってきてジェイをいじめたりからかったりする厄介な災害くらいの認識しかなかったのだ。

 あれは二人が四歳だったか五歳だったかの頃。
 沢山の思い出の中でも一際ジェイが忘れられない出来事がある。
 あの日、ジェイは離れの庭先で一人泣いていた。
 そこに、祖母に連れられたシャルが遊びに来たのだ。

『なぁに、またないてるの? こんどはなによ!?』
『ねぇさまが……ぼくのこと、いらないこだからおじいちゃんたちにくれたんだって。だからはなれからでてくるなって』
『なにそれ! それでだまってここでないてるの!? あんたもたまにはいいかえしなさいよ! おとこでしょ!』
『だ、だって……』
『もう! いいわ、あたしがしかえししてあげる! きなさい!』
 自分の晴れ舞台にうっとおしい弟が決して近づかないようにと釘を刺したことがジェイの姉の決定的な敗因となった。

 その日、彼女は取り巻きの友人達を集めてお茶会を開いていた。
 大人達のサロンを真似たママゴトの延長のようなものだったが、親バカな両親はガーデンパーティー形式の結構な規模の場を用意したのだ。
 招かれざる二人の客は賑やかな庭の植え込みの陰に子ねずみのように隠れてそれを覗いた。
 真新しいピンクのドレスに身を包んだ姉の姿はすぐに見つかった。
 彼女は女主人をきどって上機嫌で会場の真ん中でコロコロと笑っていた。
『みてなさい! あたし、もうまほうがつかえるんだから!』
 あの時の騒ぎを思い出すと、今でもジェイは笑いがこみ上げる。
『えーっと、いたずらなにしかぜよ そのきまぐれなこころを ひとときここにあそばせたまえ』
 それは本来ならほんのささやかなそよ風を起こす練習用の初歩の魔法のはずだった。
 だがシャルは魔法に関してはあの頃既に疑いようの無い才能を見せていたのだ。
 じっと見守るジェイの目の前で、ぶわり、と風が起こる。
 シャルの真っ赤な髪で一瞬遊んだ風は次の瞬間、子供達の笑い声が響く華やかな会場の中を吹き抜けた。

『キャァァッ!』
 姉の自慢のピンクのドレスの、その華奢な生地にたちまち絡みついた風はそれをふわりと頭上高くまで舞い上げた。
 必死に抑える手も間に合わず、白いレースのペチコートやドロワーズが風にはためく。
 大人を気取ってアップした髪にごてごてとつけた飾りが更に彼女に災いした。
 ドレスの裾のレースが髪飾りの一つにしっかりと引っかかったのだ。
 その姿の無様な事と言ったら例えようが無かった。
『いやぁ! とって、とってぇ!』
 姉は羞恥からパニックになり、顔を真っ赤にしてテーブルの間を走り回ったあげく、その幾つかをなぎ倒した所でパタリと気絶した。
 二匹の子ねずみはそっとその大騒ぎの場から逃げ出して心行くまで笑い転げた。
 あれ以来ジェイの姉はガーデンパーティと名のつく物が大嫌いになったらしい。
『やっぱり、このくらいはやらなくちゃね!』
 そう言って笑うシャルの顔は誇らしげで自信に満ちていた。
 幼いジェイは、そんなシャルが誇らしかった。




 振り下ろされた棍を飛び退って避ける。
 ジェイは十分な間合いを取ると腰につけた小さなポーチから、更に小さな瓶を探して取り出した。キュ、と栓を抜いてそれをポタポタと辺りに撒く。
 中に入っているのはほんの少しばかりの聖水だった。
 光の教会で清められたそれは光の精霊を呼ぶ為の助けになる。
(一発で、決める)
 ジェイは空になった瓶を投げ捨てて、唯一これだけ覚えている古代語の聖句を唱えた。

『光の精霊よ ここに』

 シン、と静寂が二人を包む。風だけがその場を吹きすぎた。
 変化は何も起こらなかった。
 アロナはジェイの動きに、彼が何か魔法でも使うのかと身構えていたが何も起きなかった事に拍子抜けしたようだった。
「なぁに、失敗? 魔法でも使うのかと思ったのに」
 馬鹿にしたように笑いながら、アロナもまた次の手を考えていた。
 手数ではアロナが遥かに押しているが、未だ決め手にかけているのだ。
 ジェイのようにすばやいタイプは的にしにくいし、殺してはいけないから狙える場所が少ないのが面倒くさい。
 先ほどから何度も打ち込んだり切りつけたりしてみたが、どれも間一髪で避けられていた。
 頬と肩に与えた以上の打撃は与えられないでいる。
 だが、本気で急所を狙うわけにはいかないのだ。
(腕か足……肩くらいにしとかないと駄目よね。面倒くさいなぁ)
 あまり体に傷をつけて強制送還されるようなことになったら自分達が妨害したのがばれてしまうからそれは避けたいのだ。
 せいぜい動けなくして、恥をかかせて学園に訴え出れないようにするのが理想的だが、彼女としては時間が稼げればそれでいいから最悪このままだらだらと戦い続けてもいい、と思いなおす。
 よし、と方針を決めたアロナは、もう一度攻撃をしかけようと棍を構えた。
 しかしその次の瞬間、 

ダッ!

「えっ!?」
 なんとジェイが突然身を翻し、背中を向けて走り出した。
「なっ! ちょっ、バカにしてんのっ!?」
 カァッとアロナの頭に血が上る。
 ついさっきその背中を的にする、と宣言したばかりなのにバカなのかそれとも、と一瞬考えたが怒りの方が先にたった。
「お望みどおり的にしてあげようじゃない!」
 距離はまだ十分射程内だ。
 アロナは棍を離すとさっと袖に手を滑り込ませ、両手に握ったナイフを無防備に見せ付けられた背中に向って本気で投げつけた。
 とっさに数を減らして六本にしてやったが、間違いなく全てがその背中を捉えている。
(もらった!)
 アロナは思わず笑みを浮かべた。
 次の瞬間、くるり、とジェイが体ごと振り向いた。
「!?」
 アロナは仰天した。思わずジェイの正気を疑う。
 そのまま体の正面で受ければただではすまないはずだ。ナイフの軌道はジェイの部分鎧では避けられない場所を幾つも狙っている。  
 死にはしないだろうが下手をすればすぐさま強制送還の魔法が発動するだろう。

(しまった、それが狙い!?)

 けれど、それもハズレだった。
 当たる、と彼女が思った瞬間、パッと全てのナイフが掻き消えたのだ。
「えっ!?」
 何が、と思う間もなかった。
 タタン、と固い音が自分の周囲で響いた、と気づいたその一瞬の後、
「雷!!」

 ピシャアァン!!!

「キャァァッ!!」
 衝撃と熱が、彼女の体を駆け抜けた。
 強い痺れがアロナの全身を覆う。
 がくり、と膝を突いて彼女はその場にくずおれた。
 何が起きたのか全くわからなかった。
 だがどうやら彼女の手足は火傷を負ったらしく熱を持ってヒリヒリと痛む。
 じゃり、と足音と共に目の前にジェイが戻ってきた。
「もう動けねぇだろ。じっとしてろよ」
「……あんた、何、したの」
 アロナは荒い息の間から問いかけたが、何をされたのかはなんとなくわかっていた。
 気がつけば彼女の周りには、立っていた場所をぐるりと取り囲むように、砂利の間にナイフが突き立っている。
 恐らくはこれを避雷針にして、雷を投げたのだ。雷はナイフで囲まれた空間で暴れ、アロナを襲った。
 だが彼女にわからないのはその速度だ。
 ジェイの反射神経はかなりのものだったが、それでもアロナと大差は無かった。
 なのに最後のあの、ナイフが消えた瞬間。
 あれは恐らく彼が飛んできたナイフを全て手で受け止めたから消えたのだ、とアロナは今気づいた。
 背を向けて逃げ出したのも、彼女にわざとナイフを投げさせる為だったに違いない。
 一瞬で彼女の投げたナイフを受け止め、それを投げ返した。その全てがアロナには見えなかった。
「聞くなよな。手の内は明かさない。特戦科のお得意だろ」
「そう……そう、ね!」

 ザッ!

「うわっ!?」
 突然顔めがけて投げつけられた砂利にジェイは思わず腕で顔を覆った。
 てっきりもう動けないと思った相手に油断したのだ。
 その隙にアロナは置いてあった棍を手に立ち上がり、傍らの大岩に棒高跳びの要領でそれを支えにして飛び乗った。
 ジェイが慌ててそちらに向き直る瞬間にはもうナイフを手にしていた。
「ならもう一度実演してくれたら嬉しいわ。今度こそ見極めてあげる!」
 シャッと鋭い音を立ててナイフがその手を離れる。
 体は痺れ、痛むだろうにそのしぶとさにジェイは内心で舌を巻いた。
 そんな事を考える間に、さっきよりも遥かに近い距離から投げられた兇刃がジェイの眼前に迫る。
 だが、ジェイには自分に迫るその全てが良く見えていた。
 意識を集中すれば目の前に迫る刃に映る景色さえ見て取れそうだった。
 す、と何気なく手を伸ばせばそれはたやすくその指に収まる。
 ジェイは全てのナイフをそっと掬い取った後、ジャラ、とそれを川原に落とした。
 アロナは驚愕に目を見開いていた。
 彼女にはジェイに迫った刃が、またも突然掻き消えたようにしかみえなかった。
 消えた、と思った瞬間それはジェイの右手からバラバラと地面に落とされた。
 アロナはその光景に恐怖を覚える。
「何……したの」
「ちょっと見えやすくしてるだけさ」
 そういうとジェイはアロナの乗る大岩に近づいて、棍が届かないぎりぎりの範囲で止まる。
 見上げるほどの大きな岩だ。岩にはナイフは刺さらないし、遠ざかればナイフを投げ、近づかれれば棍で叩き落せる、それでも駄目なら飛び降りて逃げればいい。
 そう思ってアロナはそこを避難場所に選んだのだろう。
 いつもだったら、自分はここであっさりと身を引いただろう、とジェイは思う。
 彼女は意地だけで自分を保っているが、もうほとんど戦意を喪失している。
 逃げる自分の背に攻撃してくる可能性は少ないかもしれない。
 だが、それが皆無だとは言えない。

『いい、ジェイ。あんたはもうちょっと悪くなりなさい! 育ちが良いだけの男なんてゴミよ、ゴミ! 男はちょっと悪いくらいがいいのよ。そうじゃないと生き残れないわよ!』

 シャル語る人生への指導はいつだって極めて独善的で、ある意味とても正しい。
 ジェイは深呼吸して両手に魔力を込めた。
「来ないでよ!」
 ブン、と振られた棍はあっさりと宙を切る。
 棍をやり過ごしたジェイは深く一歩を踏み込んだ。
 ジェイの手が、ヒタ、と岩に触れた。

 ドゴン!!

 岩は重い音を立てて激しく揺れた。
「キャァァァ!!」

 ザバァン!!

 アロナは大岩から振り落とされて激しい水音を立てて川の中に落ちた。
 ジェイがやったのはアーシャに教わった、魚を取った時の方法の応用だった。
 あの時よりも遥かに強い力を真横から叩きつけられた岩は激しく横に揺れ、上に乗っていた人間を振り落としたのだ。
 水面にぷかりと仰向けのアロナと数匹の魚が浮いてくる。
「ふぅ……」
 ジェイは目を閉じて、光の精霊に感謝と、開放する意思を送る。
 ふっと自分の体が重くなったような感覚がして、光の精霊が離れた事を感じた。
 同時に目の奥がズキン、と痛んだ。
 だが痛みはすぐに治まり、まだ回復するほどのダメージではないと判断する。
 ジェイが使ったのは一種の光の精霊魔法だ。
 精霊をその体にほんの短い時間宿し、神経の反応を加速させたのだ。
 光の精霊が恐るべき速度で神経を駆け抜け体の動きを助ける。
 加速された動体視力や腕の動きなら高速で投げつけられたナイフすら止まっているのと変わらない。
 ただ、その代わり長い間は持たないし体に負担もかかりやすいのが欠点だ。
「何とか、役に立ったなぁ」
 投げたナイフに呼んだ雷も光の精霊の力だった。
 いつもは専用の符を投げるのだがこんな風のある土地ではナイフは都合が良かったから利用させてもらった。
 実は情けない事に、まだ符などの補助なしに雷を命中させられないのだ。
 ジェイは自分が光の精霊の加護を受けている事を知っている。
 けれど、本当は魔法はあまり好きじゃなかった。
 勉強も訓練もサボっているから補助がないと精霊をまともに呼び出すことも難しい。
 それでも普通よりも簡単な補助で足りているのは精霊の方が積極的に手を貸してくれるからだ。
 それを考えるとちょっと精霊達に申し訳ない。

(やっぱり、もうちょい真面目に魔法も勉強するかなぁ……)
 ジェイの家系はこの大陸に割と古くからあるせいか、光の精霊の加護を受けている者が生まれる事が比較的多い。
 兄弟は皆金髪で、中でも三番目の兄はジェイとよく似た輝くような金の髪の持ち主だ。
 その長く美しい髪の示すまま、光の精霊に愛され才能を開花した彼は王都の神殿で神官をしている。
 柔らかな笑顔や気品に満ちた物腰が評判で将来を嘱望されているらしいと聞いた。

 だから、ジェイが生まれた時も彼の髪は誰にも感動を与えなかった。
 三番目の兄と似ているな、と周囲に言われただけだ。
 剣の訓練をしても、学問を学んでも、精霊に愛されても、ジェイはいつだって何をしても二番煎じだった。
 拳法を始めたのも元はと言えば、それに兄弟の誰もが興味を示さなかったからだ。
 だから、光の精霊に愛されてもちっとも嬉しいと思った事は無い。
 ただ、そう告げたジェイをシャルだけが怒ってくれた。

『バカねぇもう! 私達みたいなのはね、手にした物は全部使ってのし上がるしかないのよ? せっかくの数少ない祝福を、自分の物に出来るよう精進しなけりゃ勿体無いじゃないの! だからあんたは何時までたっても弱っちいのよ!』
 そう言ってシャルに尻を叩かれたから、かろうじて幾つかの魔法を覚えたのだ。
 ジェイの戦い方に合うように調べて工夫して、色々なアドバイスをくれたのもシャルだった。
『あんたは頭悪いんだから、短い呪文にしないと絶対使えないわよね』
 それが今、彼女の所へ行く為の役に立ってくれた。
 けれど、拳だけでは得られなかった勝利はやはりジェイにほんの少し苦い思いを残す。

(弱いのが悪いんだから仕方ないよな)
 本当に、シャルの言った通りだ。
 やっぱり自分は弱い、とジェイは改めて思う。
 弱いんだから、使える物は何でも使うのだ。
 ここで負ける事を考えたら魔法に対する自分のちっぽけな矜持などなんだというのだ。
 ジェイは自分の中の苦い思いをぐっと飲み下すと頬の血を服で拭って歩き出した。

 さっきから川の中が静かな事をいぶかしんでそちらを見ると、どうやらアロナは気を失っているらしくかろうじて岩に引っかかってそこに止まっていた。
 助けるべきか、と一瞬迷う。
 けれど、それよりも行かなければという気持ちの方が勝った。
 足元に落ちていた棍を拾って川に向って投げる。
 投げられた棍はカン、と固い音を立てて岩に引っかかってどうにか彼女の体を支えた。
 それだけ確認すると、くるりとジェイは踵を返した。

 助けないのか、と胸の内で囁く声がする。
 死んでもいい、とそれに答えた。
 自業自得だと無理矢理思う。
 運がよければ目を覚ますだろうし、ひょっとしたら強制送還されるかもしれない。
 ジェイは迷いを振り切るように走り出した。

 死んだら、その死を背負おう。
 全部を助けたいなんて偽善は言わない。
 大事な物はその先にはない。
 いつだってあの炎に追い立てられるように導かれ、叩かれながら助けられてきた。
 けれど、それが今は消えている。
 だから今度は、自分が行くのだ。

 たった一つの為に他を切り捨てる事を、ジェイはついに覚悟した。
 今目の前に見えるのは、紅い面影唯一つだった。
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