9.夏の満ちる森で

 夏の森は明るい色と賑やかな音に満ちている。
 木々の間からは光が零れ、地面を照らすそれは風の音に合わせてゆらゆらと揺れる。
 森の中のどこに行っても夏を歌う蝉や鳥達の声が迎えてくれる。
 夏であってもこの森の中はひんやりと涼しく心地いい。
 特に、高原地帯と言ってもいい場所にあるアウレスーラを囲む森は避暑には最適の気候だった。
 その代わりに当然冬は厳しい。
 だが今はその冬を記憶から呼び出そうとしても難しいほど、緑の森は美しい季節だ。


「いくわよー!」
「おう!」
「がんばってー」
 賑やかな鳥や蝉の声を遮るように、木々の間に明るい声が響き渡った。
 アーシャは山小屋の脇に据えられた木陰のベンチに座り、目の前の広場に立つシャルに応援の意味を込めて手を振った。
 ジェイはそのシャルから少し離れた所にしゃがみ、立っているシャルをじっと見つめていた。
 ぐっと拳を握り真剣な顔で立つシャルは、彼女にしては珍しい動きやすいパンツスタイルだ。
 シンプルな半そでのワンピースに七部丈くらいのパンツを履いたその姿は何故かいつもより一回り大きく見える。


 それもそのはず、シャルのその細い背中からは、なんと彼女の背丈よりも大きな一対の翼が生えていた。
 それは以前どこかで見たように真っ白で、けれど先の方だけがほんのりと赤い。
 バサ、と音を立てて翼が開いた。彼女の周りに大きく風が起こる。
 強い羽ばたきによって、ふわり、とその体が浮き上がった。
 バサバサと翼を大きく広げ、両手でバランスを取りながらシャルはゆっくりと上を目指す。
 翼の長さは片方だけでもシャルの背丈を三割増ししたくらいだ。
 だがそれでも普通に考えたら彼女の体を浮かせるためには全然長さが足りないはずだ。
 なのにああして浮かぶのだから、やはり何か不可思議な力が働いているのだろう。
 見た目には魔法を使っているように見えないのが不思議だった。

 アーシャがそんな事を考えながら見ていると、シャルは自分の背の倍の高さくらいまで上がったところで、不意にバランスを崩して空中でよろめいた。
 それを見てジェイが慌てて立ち上がり即座に駆け寄る。

「きゃっ!」
「シャル!」
 どさ、ぐぇ、とおかしな音がして、シャルは彼女を受け止めようとしたジェイの上に落下した。
「シャル、大丈夫?」
「いたた……うん、何とかね。あーあ、また失敗か。やっぱり滑空するのと違って地面から飛び立つのは難しいわね」
「うーん、飛び立つ時に風の魔法で補助したらどうかな? 下から巻き上げる感じで」
「いい考えだけど、それだとかえってバランス崩して目を回さないかしら?」
「……それはいいからとりあえずどいてくれぇ」

 シャルの下からジェイの悲痛な声が小さく上がる。
 あら、とシャルは今気づいたかのように呟き、ようやくジェイの上から降りて立ち上がった。
「開放を。一休みするわ」
 シャルの言葉に反応して背中の翼がふっと掻き消える。
 うーん、と一つ伸びをすると、シャルも木陰に入ってベンチに座った。

「練習楽しそうだね、シャル」
「そりゃあね。せっかくの贈り物だもの、有効活用しなきゃ。最初に使った時は最悪な気分だったけど、もう慣れたわ。
 それに私のだけはまさか街や寮で練習するわけにいかないもの、ここにいるうちに頑張らなきゃ」
 そう言ってシャルは自分の腰に下げた緑の石を見た。
 それは勿論あの風の森でグリフォンに貰った聖霊石だった。




 帰りの船を下りて数日後、四人は様々な準備を済ませてようやく森へとやってきていた。
 四人が借りた学校所有の山小屋は古いものだが定期的に手入れがされているようで、最初こそ掃除に手間取ったが住み心地は悪くない。
 アウレスーラ学園の夏期休暇は七月の終わりから九月の終わりまで。
 休暇の開始早々に旅行に十日近くを費やしたが、まだまだ十分すぎるほどの日々が彼らには残されている。
 だから当然四人が森に来てまず始めたのは休暇中の課題などではなく、その好奇心の追求だった。人が居ないこの場所はそれぞれの石に付いたおまけとやらの検証にはうってつけだ。
 けれど始めてみるとそれは思ったよりも大変な作業だった。
 中でも特に大騒ぎだったのはシャルだった。
 シャルが初めて石を使った時のことを思い出すとアーシャは今でも少し笑ってしまう。
 あの日も今日と同じく良い天気だった。




「じゃあ、あの石板に告げた言葉を言えばいいのね?」
「うん、そうみたい。適当でいいから試してみて。危なそうだったらすぐに石を離してね」

 シャルが求めたのは自由。
 それがどんな現象を起こすかは分からないが、自分のようにひどい事にはなるまいとアーシャは考えていた。
 何かあっても石を手放せば元に戻るようだから余り心配しても始まらない。
 シャルもそれに納得して頷いた。

「じゃあいくわよ」
「おう」

 山小屋の前の小さな広場の真ん中で、シャルは周りを囲む仲間達をぐるりと見回してから右手に石を握った。
 誰もが少しの緊張と共にシャルを見つめる中、シャルは高く声を上げた。

「我は自由を求める!」

 次の瞬間、その周囲に風が起こった。
 ぶわ、とシャルの回りの空気が膨れ上がる。

「キャッ!」

 シャルを中心に巻き起こった突風はぐるりと渦を巻く。
 飛ばされるほどの風ではないが、巻き上げられた草や砂がぴしぴしと顔や体に当たる。
 四人はそれらを避けるように目を閉じて腕で顔を覆ったが、風が吹いたのはほんの短い間だった。
 風が唐突に止んだ事に気づいたシャルはそっと目を開けた。
 目の前に立った三人も目を開いて辺りを確認しているのが見える。
 それ以外はさっきと変わらない風景が広がるだけで、自分にも何も変化はない。
 シャルは何も起こらなかった事を確かめると、少しがっかりしながら仲間達に大丈夫かと問いかけようした。
 だがその問いは先に彼らによって遮られてしまった。

「……シャル」
「え?」

 アーシャはぽかんとシャルを見ている。
 アーシャだけではない、ジェイも、ディーンすら目を見開いて彼女の方を見ていた。
 シャルはその視線を受けて自分の体を見下ろしたがやはり何も変わった所はない。
 訝しげに顔を上げると三人の視線が向かう先は自分ではなくその少し上、どうやら彼女の後ろもしくは背中を向いていることに気づいた。
 シャルは振り向いた。だが後ろには何もない。
 しかし、視界におかしな白い物が映った。

「え?」

 今度は体ごとではなく、首をぐっと回して後ろを見た。
 その視界に入った白い物は彼女の背中にぴったりと沿うように存在しているらしく、上から下まで見下ろすその動きに従ってそれも上下する。根元はどうやら彼女の背中に張り付いているらしい。 
 そう、それは、まさしく。

「は……羽?」
「うん。翼、だね」
「すげー」
「……」

 ぐるりと首を反対側に回すとやはり同じように白い翼が目に入る。
 それの意味する所は一つしかない。
 彼女の背中に、一対の翼が生えている。
 しかも、あの森で会ったグリフォンと同じような、白い翼。
 シャルは鏡がなくて見る事の出来ない自分の今の姿を想像した。
 その想像が脳内で形になった時、彼女はピシリと固まった。

「シャル?」

 立ち尽くしたまま動かない彼女にアーシャが訝しげに声をかける。

「……い」
「ん?」
「いっやあぁぁぁぁ!」

 ブン! と風を切る音がして、何かがすごい勢いでシャルの手から飛んだ。

「うわぁ!」

 自分の方へ飛んできたそれをジェイが素晴らしい反射神経で受け止める。
 それはシャルが握っていた聖霊石だった。
 石を手放した事でシャルの背中の翼もスッと空気に溶けるように消えた。

「ちょ、お前、石投げるなって! この罰当たり!」
「うっさいわね! なんなのよ今の! 聞いてないわよ! 何で羽が生えるのよ!」

 シャルは大声で叫ぶと頭を抱えてしゃがみこんだ。

「何なのよもうー! 何あれ! いやー!」
「え、シャル、羽が嫌いなの? 鳥が苦手、とか?」

 アーシャはシャルの激昂ぶりに驚いていた。
 少女はむしろ格好よくていいな、とちょっと思っていたのでそのシャルの嫌がり方が理解できない。

「か、かっこいいと思うよ? 綺麗だったし……」
「そうそう、悪くなかったって! 何がそんなに嫌なんだよ?」
「……何が嫌ってねぇ」

 頭を抱えたままだったシャルは二人の言葉に小さく呻くと、キッと顔を上げた。

「柄じゃないのよ!」
「……へ?」
「……柄?」
「……確かに」

 ぼそりと呟いたディーンをシャルは一瞬睨みつけた。
 だがそれには納得するところが合ったらしい。

「そうよ! どう考えても私はこういうのが似合うタイプじゃないでしょ!?
 こういうのはもっと可愛いくってふわっとした感じの、いかにも回復魔法が得意でぇす、みたいな子がつければいいのよ! そうじゃなきゃいっそジェイみたいなキンキラ頭がつけるべきなの! 私はこう見えてもそれなりに自分を知ってるの!」
「なるほど、己を良く知る素晴らしい意見だ」

 捲くし立てるシャルの言葉にアーシャもジェイもぽかんとする他ない。
 ディーンだけがそれに同意を示してパチパチとやる気のない拍手を送っていた。

「それなのにこんなの、恥ずかしいったらないじゃないの! せめて赤とかなら髪と一緒だし私にも似合ったかもなのに、よりにもよって白! 純白! いっそ黒だった方がまだマシに見えるのに! あーもう絶対嫌ぁ!」

 どうやら良くわからないがシャルにはシャルの美学のようなものがあるらしい、とアーシャは理解した。
 似合っていたと思うが彼女には何か耐え難い地雷のような物だったらしい。

「で、でも、見かけは問題じゃないよ。翼が生えたって事は空を飛べるかもって事だよ? すごいよ!」
「すごくても嫌なの!」
「わっがままだなぁ……お前そんな性格でも結構可愛い物好きなんだから、喜んだらいいのに」
「可愛い物は好きだけどそれを自分が身に着けて、あんな派手に人目に付くなら別なのよ! あーもう自由って言ってもこれじゃいやー!」
「……自由というのが幽体離脱などでなかっただけましだと思うが」

 ディーンの意見に他の二人も強く頷いたが、余りシャルの慰めにはならなかったらしい。
 人に見られたら恥ずかしすぎて死ぬ! と騒ぐシャルを宥めるのは大変だった。
 結局その日はそれ以上の説得は諦め、シャルの気分が回復するのに任せる事にして終了した。
 与えられた物は最大限に活用する主義の彼女の事だから、諦めが付けばすぐに気を取り直すだろうと判断したのだ。



 そしてそれから数日後、三人の予想通り今はこうして熱心に飛ぶ練習をするシャルの姿が見られるようになった。
 背中の翼と自分とを意識の中で切り離し、自分の全体像を想像するような事は止めたらしい。絶対に鏡も見ないと言い張っていた。
 何がそんなに嫌なのかアーシャにはやっぱり分からないが、シャルの翼は服を破ったりと言う事もしていないし、石の持つ力が実体化したものなら自分の意思を強く込めれば色が変わる可能性もある、と助言はした。

 それ以来シャルは練習する度に赤をイメージしているらしく、ここ数日は羽の先がうっすらと赤く色づいてきている。
 白い翼はすっきりしていて美しいと思うが赤いのもきっと似合うだろう。
 技術的にはシャルは既に少し高い場所からの滑空をマスターし、地面から飛び立つ練習へと移行している。
 地面から飛び立つのはなかなか難しいようだがシャルはそれも楽しんでいるように見える。
 シャルが求めた自由を象徴するグリフォンの翼を、彼女はいずれ思いのままに使いこなせるようになるだろう。
 アーシャはシャルのその前向きな姿勢が少し羨ましい。



「ところでそろそろお昼だけど、ディーンは? またどこかに登ってるの?」
「んと、今日は山に登ってどこまで見えるか試してくるって言ってたよ。そろそろ帰ってくるんじゃないかと思うけど……ちょっと待ってね」

 アーシャは腰に下げた自分の石を取り出した。
 石を手の平に乗せ、それを使う前に意識して心を閉じた。
 他の意思が自分に伝わらないように、自分の心の中にある小さな窓をパタリと閉める。
 あくまでそう意識するだけの事だが、それによっていつも聞こえている小さな精霊達の声も遠のく。
 それからやっと言葉を使う。

「我求めるは その絆」

 ぽ、と緑の石に光が灯った。手に石を握りこむと、この山と森の全景がおぼろげに頭に浮かぶ。
 ディーンのことを考えるとその森の一箇所がチカ、と光った。

(ディーン)

 その光に向かって胸の内で呼びかける。
 頭の中で話しかけるように使うそれは、精霊に意思を向ける時と同じだから難しくはない。
 しばらくすると同じように返事が届いた。

(アルシェレイアか?)
(うん、帰るのにあとどのくらいかかるかと思って)
(もう少しだな。直に着く)

 わかった、と意思を送ってアーシャは意識を反らした。そうすることで繋がりはすぐに消える。

「今森まで降りてきてたよ。もうすぐ着くって」
「そう。じゃあそろそろお昼の用意しようかしらね?」
「えっ、二人が用意すんの?」
「何よ。何か文句あるの?」
「いえ、ないです……」

 シャルにすごまれてジェイはそそくさとアーシャの後ろに隠れた。
 シャルの料理はまずくはないが出来上がるのがとても遅い。
 だからこの森に来てからの食事の担当はやはりほとんどがディーンで、他の三人がそれを手伝うようにしていた。
 今からだと二時間はかかるかな、と覚悟をしたジェイにアーシャが笑って首を振った。

「ジェイ、あのね、ディーンが朝お弁当作ってくれてたよ。地下の食料庫で冷やしてあるの」
「おっ、まじ!? やった!」
「そうよ、良かったわねー? だからあんたが、中から机とか皿とかの道具をここに運んでくるのよ!」

 げぇ、とジェイは叫んだがシャルに追い立てられて慌てて山小屋の中に走っていった。
 アーシャはいつものようにそれを見送り、それからやっと閉じていた自分の中の窓を元通りに開いた。
 精霊達の声がまた近くなる。
 アーシャは深いため息を吐いた。


 アーシャにとってこの石は、使う練習をし始めてからも相変わらずとても扱い辛い代物だった。
 元々アーシャは聞くという能力には長けている。
 意識しなくても精霊の声が聞こえているのだから、改めてそれが聞こえても別に嬉しくもない。
 その代わり、この石の力を知ってから精霊達に自分の意思を伝えるのがよりたやすくなったと感じていた。
 自分がして欲しい事を強く考えて放たなくても、古代語で語り掛けなくても彼らに意思が通じるのだ。

「……絆、かぁ」

 小さく呟いた声を耳にしたシャルがアーシャの顔を覗き込んだ。

「やっぱりそれ使うの、嫌?」

 最近アーシャは石を使う度に少しだけ憂鬱そうな顔を見せる。
 それを知っているシャルはアーシャに問いかけた。

「嫌って言う訳じゃないけど……」

 精霊達との絆がより一層深くなった事はとても嬉しい。
 その他には、動物ともある程度意思の疎通が出来るようになったことは確かめた。
 気が立ってない動物で、その姿がアーシャから見えるくらいの距離にいるなら、かなりの成功率で意思を伝えて傍に来てもらったりすることが出来る。それも嬉しい。
 けれどその対象が人になるとアーシャは途端にしり込みしてしまう。

「でもアーシャの石の力、便利だと思うわよ? 私のと違って人前でもそれと分からずに使えるし、仲間とはぐれても安心だもの」
「ん……けど、これ街で使うのやだな」

 あの船での一件はアーシャには本当にきつかった。
 アーシャに聞こえるのは、その人の心全てという訳ではない。
 その人が強く考え、無意識で外に向けている思いだけがアーシャに届くのだ。それは何度か試して理解できた。

 けれどそれだけでも少女には恐ろしい。
 あの船で一度に押し寄せたそれらは何がなんだか分からない声が大半だったけれど、その中に混じっていた悪意や悲しみに満ちた幾つかの声がアーシャの心を今でも怯えさせている。
 自分の内でひっそりと思うだけに留まらず、外に向けて激しく発せられている負の感情はまるで鋭い刃物のようだった。
 あんなものがまた聞こえたら、と思うとアーシャは人に対して心を開く気にはならない。

 だから使う前にきっちりと自分の心を閉じ、仲間の声すらも無意識な物はうっかり聞いてしまわないように気を配って使っている。
 まだこうして仲間達に意識を絞って連絡を取る以上の使い方をしたこともない。
 もっとも、他人の心の声を聞いてまで知りたい事は何一つないし、仲間達以外に話しかけたい事もないのでアーシャはそれでいいと思っていた。

「それに、皆の心が聞こえるのって、失礼っていうか、なんかルール違反て感じがするし」
「あら、私は別に聞かれて困るような事思ってないから平気よ」
「お前は思った端から口にするからだろ」

 会話が聞こえていたのだろう、山小屋から出てきたジェイがシャルに突っ込みを入れた。

「うるさいわよ、あんただって同じでしょ。大体、私は陰口とか腹に一物とか大っ嫌いなの!」

 口は悪くても腹は白い、というのがシャルが誇る信条だ。

「ま、それには同意するけどな。俺もどうせ腹減ったなぁくらいの事しか考えないから別に平気だぜ、アーシャ」
「……ん、ありがと」

 ジェイは笑いながら右手一本で運んできた大きな木のテーブルをベンチの傍に置いた。

「ったく、重い物っていうと全部俺かよー」
「当然でしょ、力を貰ったんだから。良かったわねー、役に立って」

 ジェイはぶつぶつ言いながらも更に素朴な木の椅子二つを中から運び出してきた。
 二つ一度に右手にぶら下げて軽々と木陰に運び、ベンチと向かい合うようにテーブルと椅子を並べる。
 この強い力がジェイの貰った聖霊石のおまけだ。
 体の一部にグリフォンの獅子の力を宿す事が出来るらしい。
 利き手の使いやすさか主に右手に宿っているが、意識すれば左手に分散する事も少し出来るようになったと言っていた。

 本当はアーシャ達が座っているこのベンチは元は一対になっていて、その傍に分厚い木の板と丸太で作ったテーブルがあったのだが、ジェイが石の力を呼び出した時にそれを試そうとして持ち上げ、加減を間違えて壊してしまったのだ。
 ベンチの一つは真っ二つになり、テーブルは足が折れてしまった。
 だからジェイは今はもっぱら力の制御の訓練をしている。

 アーシャの見立てではテーブルの方は修理が出来そうだったがベンチはそうは行かない。
 近いうちに街の資材屋に行って木材を買い、テーブルの修理と新しいベンチの制作をしないといけないだろう。
 借りたものは元通りにして返さなければもう貸してもらえなくなってしまう。
 そんな事をアーシャが考えていると、足元の小さな草木の精霊がアーシャに声をかけた。

「あ、ディーン来るよ」
「お、じゃあ弁当取ってくる」

 見れば広場の向こうからディーンが歩いてくる所だった。
 ジェイは小屋の中に入り、地下に作られたひんやりした食料庫から大きな籠をとって戻ってきた。

「おかえり」
「ああ、ただいま」
「ちょうど良かったわね」

 ディーンが椅子に座ると四人はそれぞれ籠の中の料理を手分けして取り出し、冷やしたお茶をコップに注いでランチタイムを始めた。
 何種類かの具を挟んだパンに野草のサラダ、冷たくした野菜のスープ、それにチーズやピクルスが並ぶ。ちょっとしたご馳走だ。
 育ち盛りの子供たちはそれぞれ勢い良く料理を口に運びながら午前の成果を話し合った。


「んで、ディーンどうだった?」
「ああ、山の上から麓の草原を走るウサギが見えたぞ」
「すごいね。ほんとに鷲並みなんだ。」
 自分の意思で聖霊石の力を使うようになってからディーンの視力も落ち着いている。
 丁度いいくらいのところまで視力を調整して落とす事も可能になったようだし、少しずつ何を見るかの切り替えもできるようになってきているらしい。
 薄ぼんやりした姿だが時々精霊まで見えるようになったらしく、自分と同じ物が見える人がいるというのはアーシャにとって少し嬉しい出来事だった。

「だが見えない物を見る時の細かい切り替えの方は相変わらず困っているな。時には人の顔まで見えないというのはちょっと、な」
「何で見えなくなるんだ?」
「その人の持つ魔力っていうか……気みたいなものが被さって見えるから顔が良く見えなくなるんだよ」

 同じ経験をしているアーシャがジェイに説明する。

「そういうのが強い人がいると、周りの弱い人なんか幽霊みたいに存在感が薄く見えるしね」
「それはちょっと困るわね」
「最近アルシェレイアが人の名前と顔を覚えない理由が分かるようになってきた」

 目に見える物と見えない物の両方を見てみると、実は目を引くのは断然見えない物の方だ。
 色鮮やかにちらちらと舞い飛ぶ精霊や、あちこちにひっそりと掛けられている魔法の痕跡、人が色で示す気や感情の波のようなもの……それらはどれも目を奪われるには十分過ぎる光景だ。
 それらを見ていると、今さっきまで話をしていた人間の顔も忘れてしまうアーシャの気持ちがディーンにも少し分かる。
 アーシャはうん、と頷いてため息を吐いた。

「印象の薄い人なんて皆一緒に見えるよ。特に魔技科の人間なんてどれもこれもなんか覇気がなくって薄ぼんやりしてて、区別のつけようがない」
「それでクラスメイトも憶えていなかったのか」
「じっと見れば顔も分かるしどうにかそれなりに区別はつくけど、別に興味ないから」
「俺達はすぐ憶えられたのか?」
 ジェイの問いにアーシャは頷いた。
「だって三人ともすごくはっきりしてたもん。気も鮮やかな色してたけど、それに負けないくらい意志がはっきりしてた。あれなら忘れようがないよ」
 だからこそアーシャは初めて会った彼らを面白いと思ったのだ。

「ねぇ、じゃあコーネリアみたいなのはどうなの? あれも相当はっきりしてたと思うけど」
 コーネリア、という単語をしばらく考えて、アーシャはああ、と頷いた。やはりまた忘れられかけている。
「あの人はあの変な頭の印象はすごく強かったけどその他は人よりちょっと強い程度で普通の範囲内かな。
 それと高慢そうな気で顔が曇って良く見えなかったし。貴族出の学生に多い傾向みたいなんだけどね」
 だから頭だけしか憶えられなかったの、というアーシャの説明にシャルは笑い転げた。
 「すっごく良くわかる気がするわ! あの連中、この前買出しに行った時に中央広場の草むしりしてるの見かけたわよ。あれで少しは性格が矯正されるといいわね」

 シャルはコーネリアのいかにも不満たらたらのその姿を見かけて笑いを噛み殺したが、せめてもの情けとその時は声はかけないで置いてやった。
 奉仕活動の一環だろうが真夏の草むしりはさぞ体力を使うに違いない。
 夏期休暇が終わってもしまた噛み付いてきたら日焼けした姿を笑ってやろうとシャルは密かに思っていた。

「なんにせよ、こればかりは夏期休暇が終わる前にもう少しものにしておかなければ街中では使えないな」
「アウレスーラは他の街よりも見える物が多いからね。がんばってね、ディーン」
「ああ」

 返事をするとディーンはカップの中身を飲み干して立ち上がった。
 ディーンとジェイは午後はいつも軽く体を動かす予定にしていた。
 ジェイには石の力を抑えながら適度に扱う為の良い訓練になるし、ディーンにとっては力が強くなったジェイと立ち会うのはなかなか面白い。
 ジェイの拳は鍛錬用に持って来ていた刃のない剣を折ってしまうほどの力なのだ。
 今はアーシャに作ってもらったかなり強化した木の剣を使っているがそれも時々折られてしまうので油断がならない。元々速さで押すタイプのジェイが、力もつけたとなるとなかなかの強敵だった。

「おっし、後片付けしたらやるか」
「ああ」
「じゃあ私は午後はここで課題でもやってるわ。あんまりうるさくしないでね」
「へいへい。アーシャは?」
「んー、作りかけの魔具の仕上げ、かな。部屋にいるよ。 夕飯の支度手伝うから声かけてね」
「ああ、わかった」

 四人は手分けして後片付けを済ませるとそれぞれの目的の為に散っていった。
 彼らは一緒にいても無理に行動を同じくしたりすることはない。
 それぞれが自分のしたい事をし、それでいいとお互いを認めている。
 この距離感が彼らには気持ちいい。
 共に居ても個であることを尊重するからこその心地良い空気がここにはある。
 彼らはその空気を何より大事に思っていた。


 子供達の夏の休暇はこうしてゆっくりと気持ちよく過ぎて行った。
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