7.おかしな変化

「お世話になりました」
 レイアルでの六日目の朝、朝食を終えて宿を出た四人は宿の主人とその奥さんにお礼を言った。

「やーね、改まって! 最後まで行儀良いんだから、あんた達。またおいでね!」
「タウローによろしくな」
 無口な主人と、対照的な明るい奥さんが切り盛りするこの季節だけの民宿はとても暖かくて快適な宿だった。
 二人は子供達が独立してから市に合わせて民宿を始めたということだが、普段は主人は漁師をし、奥さんはこのレイアルの基礎学校の教師をやっているらしい。
 元々は奥さんがタウロー教授と友人で時々お互いの所を行き来していたそうだが、今では主人も教授と釣り仲間なのだという事だった。
 宿の食卓にはその主人自らが釣ってきた川魚が沢山並び、アーシャを大いに喜ばせた。

 四人は後ろ髪を引かれながらも手を振って宿屋を後にし、まだ朝早く人の少ない街の中をのんびりと歩く。
 結局この街には丸五日滞在していた事になる。
 その間に思う存分買い物をしたり、川で舟遊びや釣りをしたりと四人は大いに楽しんで、今日これから帰りの船に乗る。

「ジェイ、ディーン、ごめんね……」
アーシャは両手に荷物をぶら下げたジェイの脇を歩きながら、申し訳なさそうに少年二人に声をかけた。
「良いって。大した量じゃないし大丈夫」
「問題ない」
 ジェイとディーンがそれぞれの手に持っている荷物の半分はアーシャの買い物だった。どうしてもカバンに入らなかった物を二人が持ってくれているのだ。
 少女にとって市場に溢れた色々な物はどれも珍しく魅力的で、つい調子に乗って買い物をしすぎてしまった。
 荷物をまとめる段階になってその事に気づいたが時は既に遅かった。
 アーシャは以前作った、物が沢山入るディパックを持って来ていたし、いつも着けているヒップバッグもかなりの量の物が入るのだがそれでも溢れてしまったのだ。
 その溢れた物を、比較的買い物の少なかった少年二人が手分けして運んでくれているのだから何とも申し訳ない。おまけにアーシャの買い物は結構重たい物が多いのだ。
 済まなそうにしている少女にシャルは朗らかに笑いかけた。

「いいのよアーシャ。どうせ二人にとってみれば軽い物なんだから」
「や、お前の荷物重いぞ……何入ってるんだこれ」
 ジェイはその右手を塞ぐもう半分の荷物を少し持ち上げてシャルに示した。その袋はアーシャの物よりも随分と大きい。
「服とか布よ。火大陸産の巻きスカートとか、水大陸の薄い織物とか色々買ったもの。でも軽い布地が多いはずよ?」
 だが軽い布でも大量になればかなりの重さになる事は想像に難くない。
 シャルは布のままだと安かったそれらを大量に買い、友人達への土産にしたり、自分の服を作ったりする予定なのだと言う。

「そうは言っても重いのは事実なんだけど……」
「男がぐだぐだ言わないの! あんた最近力強くなったって喜んでたじゃないの、こういう時に使わないでいつ使うのよ!」
 余計な事を言ってしまった、と軽く後悔しながらジェイは諦めて荷物を持ちなおし足を速めた。
 船に乗ってしまうまでの我慢と思って先を急ぐ。
 ディーンの方はアーシャの荷物の他は自分の買い物だ。重いらしいがさほど量は多くない。
 シャルはディーンには自分の荷物を持たせるつもりがないらしかった。
 頼んだ際に返って来る言葉の嫌味っぽさが予想できて嫌なのだという。
「世の中不公平だぜ……」
「何か言った?」
「いーえ、何も!」 
 今日も二人は相変わらず仲が良い、とジェイが聞いたら異論を唱えるような事を考えながらアーシャはくすくすと笑った。






 青い空の下に大きな帆を広げ、船は滑るように川を上って行く。
 レイアルの船着場は広い街の外れにあるのでそこまでは結構歩いたが、乗ってしまえば後はすこぶる暇だ。
 荷物を船室に置いた四人は狭いそこから離れ、船の中でそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。
 アーシャは行きも散々眺めていたのに、帰りの船でも飽きもせずに船内のあちこちを見て回っていた。
 中でも少女はこの船の大きな帆が気に入りで、一回りを終えた今はデッキの上の船尾の方に座りこみ、風をはらんで大きく膨らんだ帆を熱心に眺めている。
  その目には楽しそうに帆で遊ぶ風の精霊達の姿が映り、自分も加われたらいいのにと少し羨ましくなる。
 精霊達のおかげで風はとても気持ち良いが、日差しが強いので辺りには人の姿はほとんどなかった。
 アーシャにはとてもありがたい。

 川を遡る船は行きと違ってどうしても逆波を船体に受けるので多少は揺れてしまう。
 その揺れがシャルには嫌だったらしく、彼女はデッキにしばらく出ていたが軽い船酔いを覚えて今は船室で休んでいる。
 逆にジェイはその揺れが気に入ったらしく船首に陣取って船の先を眺めて楽しんでいた。
 ディーンの姿は見えなかったが、恐らく日陰にいるのだろうと少女には予想が付いた。
 闇の加護を受けた人は明るい日差しを余り好まない事をアーシャは知識として知っていた。
 全てがそうだとは言い切れないが、精霊の加護を強く受ける人はその性格や嗜好に偏りが出る事が多いことが定説とされている。
 加護を受けたからそうなったのか、元々そういう性格だから加護を受けたのか。その結論は未だ出ていない。

「卵が先か、鶏が先か……」
 アーシャは小さく呟き、傍にあった樽に寄りかかった。
「何の話だ?」
 その声に視線を下げると船首の方からディーンが歩いてくる所だった。
「あれ、ディーン、どうしたの?」
 ディーンはその問いには答えずアーシャの前まで歩いてくると彼女の目の前の床に腰を下ろした。

「相談したい事がある」
「相談? 何?」
 ディーンは何から話したものか迷うようなそぶりを見せた。
 アーシャが黙って待っていると、不意に彼は右腕を上げて遠くの空を指差した。
「あそこに鳥がいるのが見えるか?」
 アーシャはその指が指し示す方向を見た。
 自然の中で育った少女は視力には自信がある。
 昔よりは若干落ちたかもしれないが、それでもかなり遠くの物も見えるはずだ。
 けれどその空には一見した所はっきりした物は何も見えず、目を凝らしてどうにか見えたのは何か居ると言われればそうかもしれない、という程度の小さな点だった。

「……見えない。鳥だって言われれば、空にいるしそうかなって思う程度かな」
「あそこにいるのは海鳥に近い種類だと思うが……頭と体は白く翼は灰色、その先が少し黒い。足と嘴が赤い鳥だ」
「そんな事まで分かるの?」
 驚く少女にディーンは困ったように眉を寄せて頷いた。
「見える、ようになったらしい」
「どういうこと?」
「私の目は今までも悪くはなかったがあんな遠くの物は到底見えなかった。ここ最近でどうやら急速に視力が上がったらしい」
 アーシャはもう一度空を見た。けれどやはりそこには小さな点が見え隠れするだけだ。

「視力が良くなっただけ? 他に変化は?」
「他には……時々おかしなものが見えるな」
「おかしな物って、例えば?」
 ディーンはきょろきょろと辺りを見回すと、船の帆を見上げて指し示した。
「あの帆に、時々魔法陣が見える。後は、君が身に着けている物にも同じようなものが見えるな」
「え……ほんとに?」
 アーシャは驚いて目を見開いた。ディーンは少女に頷く。
「……あれが見えるって事は……じゃあ、これは?」
 アーシャはそう言うと自分のすぐ脇の空中を指差した。
 ディーンは言われた場所に目を凝らしたがそこには何も見えなかった。

「何も見えない」
「そっか……うーん、なんだろ」
「最初は何か精霊の加護の影響かと思ったのだが、闇の精霊でそういう加護があると聞いた事がない。だが、ジェイは光の精霊を目に宿したりするからあるいは、と」
 アーシャは頷くとディーンを手招きした。
「ちょっと見せてね」
 そう言って小さな両手を伸ばしてディーンの目をそっと覆う。
 目を閉じて集中したが、そこに何かが宿っていると言う気配はない。

「何もないみたい。精霊じゃないみたいだけど……変化に気づいたのはいつから?」
「さて……しばらく試験で忙しかったからな。試験の後には何となく変化があったように思う。もしかしたらその前にもあったが気づかなかっただけかもしれない」
 うーん、と唸りながらアーシャは自分の中の魔法の知識を漁った。
 視力が良くなる魔法は確かにあるがそれはあくまで一時的なものだ。
 視力を補助するような魔具を作ればその効果をある程度継続する事は出来るが、ディーンは勿論そんなものを使っていない。
 それにあれまで見えるとなるとまた話が違う。
 そこまで考えた所でディーンがもう一度帆を指差した。

「アルシェレイア、それで、あれがなんなのか聞いてもいいか。度々見えて気になっている」
「ん? ああ、うん……あれはね、あの帆に掛かっている魔法の源。多分この船の重要機密の一つ、かなぁ」
 アーシャの目には揺れる帆の上になかなかに緻密に描かれた薄水色の魔法陣がずっと見えていた。恐らく今のディーンにもこれが見えているのだろう。
 この帆は、その帆布自体が風を集める為の一つの魔具なのだ。
「重要機密、と言う事は本来は見えなくしてあるものなのだろう? そういう技術なのか?」
「うん、そう……何ていったら分かりやすいかなぁ」
 アーシャは少し考え、自分の胸に付いた銀の土台に青い石が嵌ったブローチを取り外して手の平に乗せた。

「魔具ってね、こういう目に見える文字が刻まれてる物が多いって思われがちだけど、本当はそうじゃないのがほとんどなんだ」
 少女が指差す丸い銀の土台部分には、その言葉の通り目に見える古代文字が刻まれている。
 物が小さいから刻まれている文字も細かいが、守護や水、熱などを表す文字が刻まれているのをディーンは見て取った。
 そしてそれを持つ彼女の手と重なるように、もう一つの半透明のうすぼんやりした魔法陣がその目には映る。

「魔具を作る時の魔法陣の形成は、こうやって目に見える形で刻んだり、描いたりするのが一番簡単な方法なの」
 そう言ってアーシャは青い石に指で触れ、一言呟いた。

『青き花、開け』

 次の瞬間、ふわ、と青い魔法陣が石を中心に広がった。
 さっきよりもずっとくっきりとディーンにも見える。

「さっきまでもディーンに見えてたかも知れないけど、これがこの石の中に私が隠したもう一つの魔法陣。
 この魔法陣は魔力で描いたもので、それを石に込めたの」
「……こちらの方が随分細かいのだな」
 ディーンは外側の陣よりも遥かに複雑な魔法陣が石の中に隠れていた事に少し驚いた。
「そう、こっちの方が主となる魔法陣だから。外側の目に見えるのは補助的な役割なの。石を要に使っている魔具の魔法陣はほとんどがこういう構造のはずだよ」
「さっき唱えた言葉は? この陣の中にも書かれているようだが」
ディーンは薄青い魔法陣の中にさっきアーシャが唱えた言葉が小さく書き込まれているのに気づいて問いかけた。

 「さっきのは隠された魔法陣を呼び出す鍵の言葉。
 鍵の言葉っていうのは魔法陣を描く時に中に書き込むからそれを作った人によって全部違ってて、その言葉を知らない限りこれを見る事も手を加える事も普通は出来ないの」
「……知らないな。魔技科で習う技術なのか?」
「うん、そうだよ。魔技以外では多分使わないから、他の生徒は習わないんだと思うよ」
 ディーンも基礎学部で簡単な魔具についての授業もやったが、子供でも作れるようなごく初歩の魔具の作り方などを習った程度でそういう技術がある事は知らなかった。

「それで、あの帆はそれと少し似てるんだけど、最近……って言ってもここ二十年くらいの事らしいけど、錬金術と魔技の混ざったみたいな新しい技術が世に出るようになったの」
「どんな技術だ?」
「んーと、鉱物を特殊な液体に溶かして、それでインクを作るの。
 そのインクは見た目はその鉱物の色をしてるんだけど、魔力を乗せて魔法陣を描くと、乾いた後には石に魔法を込めた時と同じように目に見えなくなる」
「それは特別なことなのか?」
「単に魔力だけで描く魔法陣ていうのは、こういう魔力を付与できる石なんかに入れなければすぐに発動するか霧散しちゃう。
 だから今までは布みたいな石を取り付けにくい素材には目に見える染料で描くしか方法がなかった。
 でもそのインクだと目には見えなくなるけど消えないから、あの帆みたいに布とか革とか色んな素材に使えて、応用範囲がすごーく広がったんだよ。
 定期的に書き直す必要はあるけど、同業者に秘密が見えないってのは一番大事な事だしね」
「なるほど……じゃああれが見えるというのはやはりおかしな事なんだな」
「見えるなんていったら大騒ぎだと思うよきっと」

 アーシャは頷いてそう言った。
 あの帆の魔法陣にも当然鍵の言葉が記してある。
 だから普通はその言葉を唱えない限りは魔法陣は決して人の目には映らない。
 独自の技術を使っている魔具はメンテナンスもそれを作った工房が行うのが当たり前の事だ。
 その為の鍵の言葉は工房に保管されていて決して外には漏らされない。
 もしくはうんと高い金を対価として払ってその鍵も一緒に買うのが普通なのだ。
 なのにそれが何もしなくても鍵の言葉ごと見えている、などと知れたらどうなるか。恐らく魔技師協会に追い回される羽目になるのは間違いないだろう。それで済めば良い方だ。

「今のディーンには私と近いくらい見えてるんだね……」
「君にはいつもああいうものが見えているのか?」
 アーシャは一度頷き、それから首を横に振った。
「見える、けど見ない。いつも見て歩いてたら道なんて歩けないよ。何で見えるかは私も知らないけど、普段は見ないように意識を反らしてるから」
「そうか、なるほど」
 納得したディーンに頷きながらアーシャは青い石にもう一度指で触れた。

 『青き花、閉じよ』

 見えていた魔法陣がフッと消え失せる。
 ディーンの目には魔法陣の色が急に薄くなったように見えていた。
 アーシャはブローチを胸に戻すと腕を組んで首を捻った。
「前よりも視力が良くなって、見えないものが見える……でも精霊は見えない」
 アーシャがさっき指で示したのは自分の隣に浮かんでいた水の精霊だ。けれどそれはディーンの目には見えなかった。
「視力が変化してるってことはこれから見えるようになるのかな……でも何でもかんでも見えるときっとすごく大変だよ」
「そうなのか?」
アーシャは嫌な事を思い出した、とでも言うようにため息を一つ吐いて頷いた。

「私、初めて森から町に出た時は町にこんなに色んな魔法が使われてるって知らなくて、あんまり色々見えすぎるから目が眩んで全然まともに歩けなかった。しばらく町を遠巻きにしながら旅をしてたよ」
「なるほど。見えないようにコントロールできるならそれに越した事はないが、原因が分からないとどこまで進行するのかも判断が付かないからな……」
「うーん……」
 二人は頭を付きあわせて深く考え込んだ。
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