8:それぞれの夜

 パタン、と軽い音が小さな部屋に響いた。
 次いでパタパタパタ、と歩く足音。

「よいしょっと」
 どさ、と買って来た品物を入れた大きな袋を中央に置かれたテーブルに置き、アーシャはふぅ、とため息を吐いた。
 背中と腰のバッグも外してテーブルに置くとぐるぐると肩を回す。
「あー、重かった」
 独り言を言いながら軽く体をほぐした後、買い物の中から赤い実を取り出して噛り付く。
 手の平ほどの大きさのリズの実は酸味が爽やかで、最近のアーシャのお気に入りだ。
 シャリシャリといい音を立てながらアーシャは片手で荷物の仕分けをした。
 すぐ使う道具、材料、こっそり買った旅のおやつなどを分けていく。
 旅用の荷物を袋に戻して床に置くと、今度は棚から作業に必要な道具をいくつも取り出す。
 時間が無いから早く作業にかからなければいけない。明後日には出発なのだ。
 前に調合してストックしてある特別なインク、刺繍針と絹糸、魔法陣を刺繍したお手製の敷き布、術を維持する要とする石……道具を用意し終わったアーシャはまずは今日買ったディパックを手に取った。
 丈夫な帆布と皮とを組み合わせて作られた小ぶりの品だ。
 その内布を引き出しじっくり検分する。
 使い物になりそうだとアーシャは判断し、天井につるした照明の丸い玉に手をかざして明るさを強くした。
 この学園都市で広く普及している光球は魔力をほんの少し流すと光を灯し、微調整も可能だ。魔技科の研究室が開発したこの次世代の明かりは、今や生産が追いつかないほどで研究室は大いに潤っているらしい。

 手元が明るくなったところでまたカバンを手に取り、針と、インクに浸して染めた糸とで内布に刺繍を施していく。
 チクチクと規則正しく器用に縫い進みながら、昨日急に出来た仲間のことを考えた。
 シャルとジェイの言い争いを見ていると、なんとなく暖かい気持ちになるのは何でだろう。
 ぼんやりとアーシャはそんな事を考えた。
 昔、育ての親が良く少女の頭を撫でながら言った言葉が胸によみがえる。

『アーシャは、こんな爺が育てたせいか、どうも淡白だのう』
『淡白?』
『うむ、ちょっと子供らしい心の動きに欠ける、と言う事かの。勿論、それも個性じゃから悪くは無いんじゃよ?』

 そういいつつも彼ははちょっと心配そうだった。
 あの人が何を心配したのかはなんとなく判っていた。
 くるくると表情の良く変わるあの二人のようなのが、恐らく正しい子供の姿なのだろう。
 ディーンだけは彼女にに少し似ている気がして、アーシャは少しだけ安堵を抱く。
 そして胸の中で小さく呟いた。
 
 けど、仕方ない。
 だって、私には何もないから。
 何も持っていないから、何かを表現する事は上手く出来ない。
 私に出来るのはせいぜいこの空っぽの器に入る物を詰め込むことだけ。
 あの人が詰めてくれた暖かい物は、別れと共にどこかに落としてきてしまった。
 勿体無い事をした、とそれだけが悔やまれる。
 それとも、あれは落とすような物じゃないんだろうか?
 まだ私のどこかに隠れていたりするだろうか?
 そうならいい、と思う。
 思うけれど。

 一文字刺繍を終えたところで針を止め、傍らのペンを手に取った。細い銀のペン軸には水晶から削りだしたペン先がつけてある。
 ペン先をインクに浸し、刺繍を終えた場所と対になるように表側に慎重に文字を書く。
 美しい意匠の文字は遥か昔に使われていた古い古いもの。
 ツ、と一文字書き終わると文字は淡い光を発してやがて消えていく。
 だが見えなくなっただけで、ちゃんとそこにあるとアーシャにはわかっている。
 そしてまた彼女は針を取る。
 見える文字を綴り、見えない文字を綴る。
 作業を繰り返しながら、仲間達について考える。

 シャルの中には炎が灯っている。
 だから彼女はあんなにも激しく、そして暖かい。

 ジェイの中には光が見える。
 だから彼はまっすぐで、あんなに明るい。

 ディーンは闇を隠している。
 けれどそれは悪い物じゃない。
 シン、と静かで少しひんやりした手触りで、深く安らがせてくれる。

(いいなぁ)
 自分には何もないから、様々な知識を詰め込んでみたりもした。
 けれど知識は固く乾いていて、私の中で何ものにも変わらない。せいぜいこうして貧弱な自分の為の道具を作り出す事ができるくらいだ。
 何かになれたらいいのに、と強く願う。

『アーシャ、―― になりたいと願ってはいけないよ。例え何があっても、お前は ― なのだから』

 それでも。
 それでも、じいちゃん。
 このまま、何ものでもないものでいるよりは心が満たされるかもしれないのに。

 人を見て、暖かくて苦しい、と感じたのは初めてだった。




 シュル、と小さな音がしてシャルの襟元の紐が解ける。
 パサ、と軽い音と共に赤いローブを脱いでベッドに置いた。
 魔法学部はこのローブが制服のようなもので、その下は自由となっているがシャルはいつも中も制服だった。
 学園指定の女子の制服は、胸元から腰にかけての前面に白い切り替えが入った黒のワンピース。
 ダブルになっている飾りボタンは金、ネクタイは学年ごとに色が違うリボンタイだ。
 どれも可愛いデザインで、制服を嫌う女生徒は少ない。
 最近はこれらにカラフルなスパッツやオーバーニーソックスを合わせるのが女子の流行だが、シャルは膝丈の黒いソックスが好みだった。
 着慣れたローブを脱ぐと急に寒く感じる。
 このローブや制服ともしばしの別れだ。
 軽く皺を叩いてハンガーに干し、赤いローブをクローゼットにしまう。
 それから今日の買い物の袋を一つ開けた。
 中に入っているのはごく一般的な黒のローブだ。
 簡単な防御の呪がかけてあるだけのもので、趣味じゃないけど仕方ない。

 赤いローブは祖母が作ってくれた物だった。
 基礎学部の五年生の誕生日に、火の魔法が強くなってきたシャルの為に、と彼女に合わせて誂えてくれたのだ。
 火の魔力を高め、制御し、身を守る呪がかけてあって、万一自分の火が暴走したり、返されたりしても身を守れる。
 シャルとは正反対に祖母は水や風の魔法が得意だったから、作ってくれたのは火の魔法と細工が得意な祖母の友人だった。
 けれど大きめに作って丈上げしてあったローブを、毎年背が伸びるシャルに合わせて丁寧に丈を下ろしてくれたのは祖母だ。
 今年は自分で丈を下ろした。
 だから縫い目は不ぞろいで、少し曲がっている。

『……貴女の好きな歌を歌って聞かせて頂戴な』

 ずっと祖母と二人だった。

 クローゼットの奥から細長い箱を探し出す。
 祖母の残した物の一つで、シャルには合わなかったもの。
 箱の中身は一メートルほどの長さの一振りの杖だった。優美な細い白木の柄に銀で水流が細工してある。
 水流は杖の上の方から流れ落ちるような意匠でその源には泉のように丸い台座が形どられている。台座の上にはその泉から姿を現すような青い青い楕円形の石が嵌っていた。
 これは祖母が一番良く使っていた杖だ。
 シャルの、火を思わせる赤い石が嵌った簡素な学生用杖とは比べ物にならない力を秘めている。
 そして、自分とは正反対の性質を持つ杖だとわかっている。
 けれど今の自分には必要な物だ。

『自由に生きなさい。貴女の思うように』

 見送った時も、二人だった。

 杖をローブの脇に置くと、シャルはもう一つの買い物の袋を開けた。
 中からは様々なアミュレットが出てくる。
 今自分が服の下に身に着けている腕輪やネックレスを一つ一つ外してしまっていく。
 こうした護符の類は普段からつけていると疲れる物が多いのだが、成長期にはそれが付加になって潜在的な魔力を、ほんの少しずつだが上げる効果がある。
 シャルは魔力を高める努力の一つとしてそれらを幾つも身に着けていた。
 だが、今着けている物は森へは持っていけない。これらは火の力を高める効果がついているからだ。
 森では火の力は鎮めなければならない。
 代わりに用意したものは火を強く抑制するもの、土や光の魔力を上げる物、水や風の加護を願う物、などなどだ。
 思いつく限りの物を買ってきてみた。安くは無かったけれど仕方ない。
 アクセサリーの形をしていない物は、買ったばかりの黒いローブの裏側に縫い付けた。
 加護を願いながら一つ一つ縫い付ける。
 祖母が、そうしてくれていたように。

『……歌をありがとう。またね、シャルフィーナ』

 義務として連絡した後再会した家族はまるで他人のように見えた。

(絶対に自由に生きてみせる)

 それが、彼女の遺言だから。
 他人なんかに口出しさせる気はないのだ。
 祖母との約束だ。
 譲れない明日のために、彼女は黙々と針を動かし続けた。




「よし、と」
 きゅ、と袋の口を閉めるとジェイはそれをベッドの脇に置いた。
 中身は今日教会で買って来た聖水や紙に書かれた護符などだ。
 明日荷物が届いたらこれを中に詰めればいい。着替えなどの必要な物も用意してある。
(明日の授業どうすっかなぁ……)
 準備だと言えば休めるが、別にすることがある訳でもない。
 朝飯の時にディーンに相談するか、と考えてベッドに寝転がると、ガサ、と音がした。
 体を起こすと置いてあった手紙が出てきた。今朝届いた物を放り投げたままにしてあった奴だ。
 差出人は兄の内の一人だった。
 はぁ、とジェイはため息を吐いてから、ビリ、と乱暴に封を開けた。
 中身に目を走らせると、お決まりの文句と近況が書いてある。後のほうの内容はいつもと同じ、他の家族からの物とも同じだった。
 恐らくは両親がお前からも言い聞かせてくれと、兄弟全員に言っているのだろう。

(なんでほっといてくれないんだろうなぁ)

 そもそもジェイをずっと放って置いたのは家族の方なのだ。
 ジェイには三人の兄と一人の姉が存在してる。
 家としての格式を保つ為、細心の注意を払って育てられた優秀な上の二人の兄。
 家族の余裕として生まれ伸び伸びと育てられ、別の分野で名を上げた三番目の兄。
 末に待望の女の子として生まれ可愛がられた姉。
 そこで終わる予定だった完璧な家族計画に、突如追加された自分は生まれた時からどうしてか異分子だった。
 四人も育てて疲れた、と言う両親には構われず、上の兄弟とは年が離れすぎている。
 甘やかされたわがままな姉とは気が合わなかった。
 自分を育ててくれたのは、優しい乳母と祖父母だ。
 祖父の影響で拳法を始めた時も、この学園を選んだ時も、六歳の子供が出発する時も、いつも彼らが側にいてくれた。
 彼ら以外は見送りにも来なかった。
 
 恨む気持ちはない。
 必要な物は、祖父母や乳母が沢山くれたから。
 彼らは今でも自分の帰る場所であってくれている。
 ただ、放っておいて欲しいだけだ。
 放っておいてくれたなら、この力を、守る為だけに使えるのに。
 自分よりももっと必死でがんばっている彼女を守る為にだけ、がんばる事が出来るのに。

(……ほんと、うっとおしい)
 ジェイの心を言い表すならその一言に尽きる。
 けれど、何もかもを放り出し壊してしまうにはジェイは優しかった。
 そんな優しさを切り捨てて、唯一つのために何もかも放り出せるほどまだ強くもない。
 中途半端な自分が一番どうしようもない。
(強くなりたいなぁ……)

 その為の道はまだまだ暗く長いようだった。




 ペラ、と紙をめくる音が静かな部屋に落ちる。
 暗くなった部屋を照らす灯りの下、静かに本を読む時間がディーンは好きだ。
 しばらくはゆっくり本を読む事もできまい、と読みかけのものを片付けるつもりだった。
 けれど、本の内容は余り頭に入ってこない。
 ページを捲る手もいつもより遅い。

『教会には行った事ないな』
『……行ってみるか?』

(……何故あんな事を言ったのだろう)
 昼間考えたのと同じ疑問がまた頭に浮かぶ。
 教会は嫌いだった。
 特にこの大陸の聖教会は。
 できれは一生近づくまいと決めている場所だ。
 なのに、何故?

『ううん、興味ないからいい』

 本当に興味のなさそうなあの声に何故あんなにも安堵したのか。
(もし、彼女が行く、と答えていたら?)
 自分は教会に行ったのだろうか。
 あの忌々しい場所に?

 だが幾ら考えても答えは見えない。
 パタン、と音を立ててディーンは本を閉じた。これ以上頭に入りそうにないからだ。
 諦めて窓の外を見ると、空には細い月が出ていた。
(……あれすらも隠れれば良いのに)
 シャッとカーテンを閉めて灯りを消す。
 それでも、部屋の中は真の闇にはならない。
(森の夜はどんなだろう?)
 そう思いながらディーンはベッドに潜る。
 眠りに落ちる前の一瞬に、あの森の緑が瞼の裏ををよぎる。

 今夜は、まだ見ぬ森の夜を夢に見るような気がした。
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