31:過去からの歌声

 アーシャは目を閉じて精霊の声にもう一度意識を集中した。
 けれどやはり聞こえてくるのは許しを請う悲しげな声ばかりだ。
 その声の切なさに自分まで更に悲しい気分になってしまいそうで、引きずられそうな気持ちを振り切りながらどうにかその声の中から幾つかの音を拾い出した。
「もうちょっと強い精霊の言葉なら良く聞こえるんだけど……何か、メル……メルフィナを許してって言ってるみたい」
「メルフィナって、それ私の祖母の名前だわ。許せって一体どういうことなの?」
 精霊達に謝られる理由も、祖母を許さなければいけない事も、何も心当たりがない。
 シャルはひどく困惑した。きっと精霊達は自分を責めると思っていたのだ。
「うーん。じゃあちょっと待ってね、やっぱりもうちょっと強いのに聞いてみるよ」
 そう言うとアーシャは川原を歩き出した。シャルも慌てて灯りを持って後を追う。
 アーシャはきょろきょろと辺りを見回すと、少し離れた場所に上が比較的平らになっている大きな岩を見つけた。
 上面は少し斜めになっているが、その表面はきれいだし、二、三人なら乗れそうだ。
 近寄って表面を調べ、使えそうな事を確認する。
 よし、とアーシャは一つ頷くと腰につけてきていたヒップバッグのポケットから小さなチョークを取り出した。
「何するの?」
「うん、結界張ろうと思って」
 見つめるシャルの目の前でアーシャの手は器用に動き、二重の円とその中や外を取り巻くように細かな文字や記号をびっしりと書き込んでいった。
 どれも古代文字でシャルに読めるものは数えるほどだが、炎や封じる、などを意味する見覚えのある言葉から自分の力を抑えるためのものかもしれない、と予想する。

「よしっと。シャル、この真ん中に立ってみて」
 完成した魔法陣は淡く光を放っている。
 シャルは言われたままに岩に登りその円の真ん中に立った。
 ふわり、と一瞬下から風が起こりシャルの体を包んだ気がした。
 不意に体が楽になった事に気づく。ずっと彼女を悩ませていた、あの内側から体を叩くような力が消えうせたのだ。
「どう?」
「すごく楽になったわ。体が軽くなったみたい」
 良かった、と言いながらアーシャは更に円の外側に幾つかの文字や線を書き足してそっと手を当てた。
「こんなもんかな。あんまり長くは持たないかもだけど、これが魔力が外に出るのを抑えてくれるから。じゃあシャル、火の精霊を呼び出してみて」
「……本当に、大丈夫?」
 きっとそのためのものなのだろうとシャルも予想はしていたが、呼び出すことには一抹の不安を感じてしまう。
 そんな彼女にアーシャは力強く頷いた。
「大丈夫。もし何かあっても、私が止めるから」
 迷いのない様子に少し考えてからシャルも頷き返した。
「判ったわ……じゃあ呼ぶわね。
『猛々しき炎の精霊よ 我に応え我が下へ来たれ』 」

 ぶわ、と魔法陣の中だけで起こった風がシャルのローブを揺らす。
 シャルの全身を実に久しぶりの暖かな火の気配が覆う。シャルはその心地よさに思わず深いため息を吐いた。
 アーシャには一瞬魔法陣が真っ赤に染まったように見えていた。
 結界が壊れない自信はあったがそれでも少しひやりとした。
 赤い光と風が治まると何事もなかったかのように辺りは静まり返った。
 けれどアーシャの目にはシャルの周りをちらちらと舞い飛ぶ無数の小さな赤い光と、彼女の前にゆらゆらと揺れる一際大きな赤い光が映っている。
 それは他の精霊よりも明らかに強かった。そして、恐らくこれがシャルを昔から守ってきた精霊である可能性が高い。
 こく、と息を呑むとアーシャはゆっくりとその大きな光に右手を伸ばした。
(お願い、聞かせて)
 そう祈りながらその火の精霊に触れる。

「アーシャ!?」
 ボッ、と何もない場所に突然炎が熾った。
 シャルの目には自分の前に伸ばしたアーシャの手が突然の炎に包まれたかのように見えた。
 自分が何かしたのか、と焦ってシャルは意識を静めようとしたが、精霊達にまだ何の命令もしていないことは確かだ。
 炎に包まれても燃えているわけではないようだがそれでも熱いのだろう、アーシャはぎゅっと眉を寄せて耐えている。
「……大丈夫、だから」
 小さく囁かれた声は、彼女が苦痛を感じている事を教えている。
 他人の支配下になっている精霊はその時点でアーシャとは相容れない存在になっている。
 自分が呼び出したものなら何ともなくても、人の呼び出した精霊に直接触れるのは多少の反発を伴うものだった。
 ましてやその精霊の意思を深く探ろうとすればその反発は更に大きくなる。
 それでも、アーシャは自分の意思を必死に精霊に合わせてその声を聞き取ろうとした。
 じりじりと焼ける手が痛みを訴えている。けれど、そんなものよりも胸に響いてくる精霊の嘆きの方がアーシャにはずっと痛かった。

『……どうか この子に……きる……を』

 途切れ途切れに聞こえるのは歌のようでもあり、祈りの聖句のようでもあった。
 もっと深く、とアーシャは更に一歩踏み出した。手の上に乗せた精霊がバチバチと更に炎を放つ。
 いちかばちか、一瞬の深い接触にアーシャは賭けた。シャルのために、という強い気持ちを精霊に投げる。
(教えて!)

 バチン!!

「わっ!」
「キャッ!?」
 大きな音ともにアーシャは弾き飛ばされて川原に転がった。
 その姿にシャルが悲鳴を上げる。彼女は一瞬結界から踏み出そうとしたが、はっと気づいてどうにかその場に踏みとどまった。
「アーシャ! アーシャ、大丈夫!?」
「うー……だ、大丈夫。平気だよ」
 アーシャはヨロヨロと起き上がったがその足元はふらついている。
 シャルがはらはらと見つめる前でアーシャは再び岩に登ってきた。
「シャル、手を出して」
 そう言ってアーシャは左手を伸ばした。少女が利き手を出さなかった事に気づき、ふとその右手を見てシャルは仰天した。
「アーシャ、その手!」
 だらりと脇に下げたアーシャの右手は今や真っ赤に腫れ上がり火脹れが出来ている。それでもアーシャはなんともないかのように更に左手を彼女に突き出した。
「後で治すから大丈夫。それより早く!」
 焦った声に押されてシャルはしぶしぶ左手を伸ばした。少女の右手の怪我が気になって仕方ない。

「シャル、目を閉じて意識を集中して。私に聞こえた、精霊の記憶をシャルに送るから」
 アーシャはシャルの手を強く握り、それだけ言うと自分も目を瞑ってしまった。その手を気にしていたシャルも慌てて目を瞑る。
 アーシャはこれが終わるまで手当てもしないつもりなのだ。何をするのかはわからないが、それなら早く済ませて手当てする時間を作るのが早い。
 言われたとおりじっと目を瞑り、シャルは体の余分な力を抜いて深呼吸した。魔法を習う者が必ず行う精神統一の基本だ。

 風の音と葉ずれの音が辺りを覆っている。
 シャルはふと、その中に違う音を聞いた気がした。
 その音に意識を傾ける。風の音に紛れがちだが、どこか遠くからかすかに鈴の音のような音がする。
 リン、と小さく、けれど意外なほど耳に響いたその音にシャルはハッと息を呑んだ。
 この音を知っている。いや、知っていた。
 去年の春、祖母が亡くなるまでシャルが毎日聞いていた音だ。
 彼女が昔から大切にしていた、野ばらを模した金のブローチの端についていた小さな金の鈴――その音に間違いない。
 祖母は、シャルが生まれる前に亡くなった祖父からの贈り物だというそれを毎日その胸元に、時には帽子に、スカーフの留めにとどこかに必ず飾っていた。
 最後の最後まで、祖母の共をしたのはあのブローチだ。
 けれどあれはもう、祖母と一緒に土の下に――
 そこまで考えた時、シャルは息を呑んだ。
 また別の音が聞こえたからだ。今度はもっと別の、人の声のような。

『どうかこの子に、娘のお腹の子に……生きる力を』

 シャルは声を上げそうになった。聞き間違えるはずがない。
 シャルの記憶にあるよりも若い気がするが間違いなく、シャルが生まれてから十四年間聞き続けた声だった。
 あの最期の日からもう一度聞きたいと何度思ったか判らない。

(おばあちゃん……!)
 シャルはぐっと歯を食いしばってその音を逃がすまいと意識を集中させた。

『闇の女神よ、どうかまだこの子を召されたもうな。この子はまだ生まれて来てもいないのです』
『お母さん……ありがとう』

 次に聞こえたその声には聞き覚えがなかった。
 弱々しい、けれどどこか意志の強さを秘めた若い女性の声だ。

『この子の為に、歌ってくれるのね』
『……ええ。お前が最期にこの世に送り出す命の為に。私の、最初で最後の火の精霊賛歌よ?』

 悲しみを押し殺したかのようにかすかに歪み、それでも必死で明るさを装った祖母の声。
 すう、と息を吸う音が小さく聞こえ、そして流れてきたのは歌だった。懐かしい祖母の優しい歌声にシャルは思わず涙をこぼしそうになった。
 けれどその歌はシャルが聴き慣れた穏やかな水の精霊歌とは違っていた。
 それは時に勇壮で、時に猛々しく、そしてどこか暖かい。
 シャルが初めて聞く、祖母の歌う火の精霊賛歌だった。

『 暖かき炎の兄上
  ここに生まれくる命にその御手を垂らしたまえ 』

(どうか、どうかこの子に生まれてくる為の力を)
 歌に混じって祖母の祈る声が聞こえた。祖母は心からの祈りを乗せ、悲しみを堪えて力強く歌っていた。
  
『 力満ちる炎よ ここに宿りて小さな灯火となれ
  此は暖かな灯火の運び手に
  優しき暖炉の守り手に  』

(どうか、この子に生きる為の強い力を)
 祖母の願いを乗せて歌声は高く低く胸に響く。歌詞はシャルの知るものと所々が違っていた。

『  時には旅を癒す小さな炎に
  春の運び手 夏の踊り子 秋の灯火 冬の守り手 』

(この願いに私の人生の全ての火を捧げます)
 祖母はシャルの記憶にある限り一度も火の魔法を使わなかったことを思い出す。家の暖炉や釜の火を熾すのも、全て手作業でやっていた。
 シャルはそれをずっと、彼女が火の魔法が苦手なせいだと思っていた。

『 その御手を経て 生まれ来る子に祝福を
  どうか我らの幼子の傍に祝福を 』

(どうか、どうかこの子に祝福を!)

 オギャア、と甲高く、力強い声が一瞬聞こえた気がした。
 それではその願いは、彼女が人生でただ一度と歌ったその歌は、確かに届いたのだ。

『ありがとう……母さん、どうか、この子を見ていてあげてね』
『……ええ、ずっと。お前の分も見ていますよ』

 その言葉を最後に泣き声は静かに遠くなっていった。
 シャルの頬に当たる現の風が、流れ落ちる雫をひんやりと撫でていく。

 いつの間にか全ての音は止み、ただ立ち尽くすシャルをアーシャが心配そうに覗き込んでいた。
「……聞こえた?」
 シャルは返事をする事も出来ずただ頷いた。
 流れ落ちる涙を拭う気にもならない。
 祖母と、そして恐らく初めて聞いた母の声がまだ胸の奥に響いている。
「シャルのお母さんは……シャルがお腹にいた時に体を壊してもうお産に耐えられなかったんだって」
 シャルはぼんやりと顔を上げてアーシャを見た。
「けど、どうしてもシャルを産みたくて、お祖母さんに頼んだんだ。子供が無事に生まれてこれるよう、力を貸してって。弱ったお母さんのお腹の中のシャルも随分弱っていて、生まれてこれるかわからなかったから」
「……それで、祖母は歌を?」
「うん。全ての命に活力を与える、炎の歌を歌ったんだ。お母さんのお腹の中の、シャルの為に」
 シャルは笑った。笑おうとして失敗した。
「ふ、ふふ、おばあちゃん、あんなに火は苦手だって言ってたのに」
 嘘だったのね、とシャルは小さく呟いた。
 その言葉にアーシャは首を振る。
「嘘じゃないと思うよ。水の魔法の方が得意だったのは多分本当だと思う。けど、シャルの為に、誓いを立てて全身全霊で得意じゃないあの歌を歌ったんだよ。だからこそ、その願いは届いた。シャルは無事に生まれて、そしてその身に強い精霊の加護を受けていた」

 祖母がシャルに教えてくれた歌の中に火の精霊歌もあった。
 けれど祖母は決してそれを歌って聞かせなかった。
 歌わないから忘れてしまったの、と言って歌詞だけを簡単に教え、火の教会へシャルを連れて行ってくれた。
 シャルはそこでその歌を覚えたのだ。

「シャルが自分の火のせいで家族と離れる事になった時、シャルのお祖母さんはすごく悲しんでいたって。シャルに何度も謝ってたって」
「だから……精霊達は、祖母を許してと代わりに謝ってくれているの?」
 シャルの目からまた涙が幾つもこぼれた。
 精霊達の優しさに気が遠くなりそうな気持ちになる。
 そんなの憎めるわけがない。彼らのせいでも、祖母のせいでもないのだ。
 顔も知らぬ母が子供の生を望み、祖母はその為に歌い、自分の火を捧げてくれた。
 そして精霊はそれに応えて力を貸してくれただけだ。
 シャルには憎めない。憎めるわけがない。
 こんなに祝福を受けて、この世に生まれてきたのだから。
「許せなんて、そんなのこっちのセリフだわ……!」

 六歳になる前の、あの時。
 熱が下がって起き上がったシャルの髪の色を見て祖母は彼女を抱きしめた。
 ごめんね、と何度も言いながらシャルを強く抱きしめてくれた。
 あの時は訳がわからなかったけれど、今なら良くわかる。
 きっと祖母にはわかったのだ。
 シャルがその苦しみから、与えられた祝福を否定した事が。

 ごめん、とありがとうをシャルは言いたかった。
 この世に送り出してくれた事に深い感謝を捧げたい。
 母と、祖母と、精霊に。
 ぐい、と涙を拭って、シャルは目の前で心配そうにこちらを見つめている少女を見た。
 さっと手を伸ばして彼女を抱きしめた。
「シャ、シャル!?」
 驚く声に構わずぎゅうぎゅうと感謝を込めて細い体を抱きしめる。
「ありがとう、アーシャ。本当にありがとう」
 唐突な感謝に戸惑いながらもアーシャは頷いた。どうしたらいいかわからない、という風にもそもそと体を小さく動かす。
 不意にアーシャは思い出したように顔を上げた。
「あ……あのね、シャル、もう一つだけ。シャルの名前、お祖母さんがつけたって言ってたよね?」
「ええ、そうよ」
「……シャルの名前、ちゃんと意味があるんだよ」
 シャルは体を離してアーシャを見る。
 意味があるなんて初めて聞いた。祖母もそんな事は何も言っていなかった。

「シャルフィーナっていうのは古い言葉で言うと、≪シア・ル・フィーネラ≫ ……フィーネラは水の女神の名前で、シアは友。だからその意味は水の女神の友。つまり水の友ってことだよ」
 水の友、とシャルは繰り返して呟いた。
 それは水の魔法の得意な祖母自身の事であり、そしてシャルがきっと将来苦手だと思うだろう水の魔法や精霊もが、その友であるようにという彼女の祈りでもあった。
 火の愛し児であり水の友であれ。
 シャルは、祖母の深い深い想いに触れたような気がした。
 また頬を涙が幾つも転がり落ちる。

「……いい名前だわ。さすがおばあちゃんね。私に、ぴったりだったわね」
 そう言ってシャルは涙と共に鮮やかに笑った。



 ぐす、と小さく鼻をすする音が木陰で響いた。
「……見つかるぞ」
「だって、しょうがねぇだろ! あんな話聞いてよぉ! お前冷たいぞ!」
「ありがとう」
「褒めてねぇ!」
 シッ、とディーンに窘められてジェイはしぶしぶ口を閉じる。
 ぐし、と鼻を擦ると必死で涙を堪えた。
 二人共ずっと少し離れた木の陰から少女達を見ていたのだ。
 彼女らが声を使わずに交わした会話こそ聞き取れなかったが、シャルに起こった出来事はジェイには身に応えた。
 ずっとシャルの傍にいたのに彼女にそんな事があったなんて知らなかった。ジェイは何の力にもなれなかった自分を殴りたい気分だった。
「俺、結局何の役にもたってもねぇんだよな……」
「そんな事はないだろう。お前は多分役に立っていると思うが」

 恐らくシャルが過去の出来事から魔法の道を志す事を止めてしまわなかったのはジェイによるところが大きい、とディーンは思う。
 基礎学校の頃、シャルが新しい魔法を覚える度に、ジェイに自慢半分で報告していた事を思い出す。
 その度にジェイは持ち前の素直さで、「すっげぇシャル! もう一回見せてくれよ!」と何度も魔法をせがんでいた。
 シャルはいつも満更でもなさそうな顔をして、しょうがないわねと言いながら魔法を披露した。
 時にはその魔法で髪の毛を焼かれたり、実験台にされたりしてもジェイは懲りることなくシャルの魔法を褒め称え続けた。
(あの頃からこいつの女の趣味はなんて悪いんだと呆れてさえいたが……)
「まぁ、そう捨てたものでもないな。安心するといい」
 何に対しての言葉なのか、深くは語らずにディーンはジェイを慰めた。
 川原の少女二人は一息ついてアーシャの怪我を思い出したらしく騒がしく手を川の水に着けたり、回復をしたりしている。
 ディーンの目で見るシャルの髪はまだ茶色いままだ。前よりも少し赤みを取り戻しているようには見える。
 一晩待ってくれ、と言った彼女が今晩のこの出来事からどんな結論を出すのか。
 ディーンはジェイを促してテントの方へ静かに歩き出した。
 結論の出る朝まではまだ大分ある。
 空には月がぼんやりと輝いていた。

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