26:問いの答え

『そうか、精霊の声が聞こえるのか』
『うん』

 森の最奥の広場では、のどかな光景が広がっていた。
 グリフォンは風の弱い崖のすぐ側にその巨体をどっしりと下ろし、翼をたたんで休んでいた。
 座り込んだその背の上には小さな人影が見える。
『それで我の声も聞こえたのだな。我等幻獣も精霊族にも会話に声を使わぬものが多くいるが、そういう者達は皆同じ波長を使って会話しておるゆえな。む、もう少し左を頼む』
『そうなんだ……この辺?』
 アーシャは手に持った木の棒でコリコリとグリフォンの首を掻いた。
 彼女は先ほどから彼の大きな背中にちょこんと乗っかり、その太い首の後ろの部分を棒で擦っていた。
 グリフォンは気持ち良さそうにパタンパタンと尻尾を振る。
 あの後、途方にくれて石版の前に座り込むアーシャに、グリフォンは気を使って近くの背の高い木になっていた果物を取ってくれた。
 果物は大きくて甘く、お昼ご飯代わりにそれを食べた少女は少し元気を取り戻していた。
 アーシャはそのお礼に、くちばしも足も今ひとつ届かない、と彼が訴える首の後ろを手入れしてやっているのだ。
『毛づくろいしてくれる仲間はいないの?』
『ふむ、いないことはないが、今は離れておる』
 アーシャは首を傾げた。
『なんで?』
『まぁ、我等にも色々あるということだ』
 彼はそれ以上は言おうとはしなかった。
 人知を超えた存在なのだから仕方ないか、とアーシャもそれ以上の問いをあっさりと諦めた。
 そのまま黙って、擦って毛羽立った羽毛を手で梳いてそっと整える。真っ白い羽はすべすべしていてとても手触りが良くて気持ち良い。

『それよりも、仲間を連れてこなくて良いのか』
『……』
 アーシャはピタリと手を止めてまたしょんぼりと俯いた。
 本当はそろそろ仲間のところへ帰るためにここを出発しなければいけない時間だ。ここまで来るのに半日かかっているのだからこれ以上遅いと向こうに着く前に日が完全に落ちてしまう。
 夜の森を歩くことは少女にとってなんと言うこともないが、仲間達は心配するだろう。
『そなたの仲間はあの炎の娘のいた方だろう? 悩みはそれか』
 やはりあの一日目の大風が吹いた時、彼は森に入り込んだ自分達を見に来ていたらしい。
 彼が語るのはシャルの事に間違いない。アーシャはこくりと頷いた。
『彼女をここに連れてくるの、難しいと思って』
『ふむ、なるほど。確かにあのままではそうであろうな。あの炎は全く調和が取れていなかった。あれでは火種が歩いているようなものだ』
 まさに彼の言う通りだ。
 あのままのシャルをここへ連れて来る為にアーシャが思いつく手はほんの少ししかない。
 この森の風を止めるか、一日ほど雨を降らせて大量の水の気でシャルの炎を無理矢理中和するか、せいぜいその程度だ。
 けれど、それをやれば多分他の問題が出てくるだろう事もアーシャには予想がついた。

『もしこの風を止めたら……ここはどうなるかわかる?』
『ふむ……まぁ、間違いなく、結界が切れるだろうな』
 そう言ってグリフォンは山を仰いだ。
 アーシャもそれに釣られて高い高い崖を仰ぎ見る。
『この森に結界を張ったのは魔道士だが、その結界を維持しているのはこの風だ。絶え間なく吹き降ろす山からの風を原動力にこの森の平和は保たれている。そして森と結界が風を弱め、この周囲に人が住むことを許しているのだ』
 やはり、とアーシャは唇を噛んだ。
 百年も維持されている結界を勝手に解けば恐らくただではすまない。森から噴出した風は周囲を荒らし、近隣の村に被害を及ぼすだろう。
 そして結界のなくなった森は人に荒らされる。
 それでは課題が成功しても学園側から責められる事になるかもしれない。

 そうなると後は雨か、と考えるがそれも簡単には思えなかった。
 アーシャは短い時間の雨でいいなら、精霊に呼びかければさほど問題なく呼ぶことができる。
 だが一日もの長い時間、無理矢理雨を呼ぶとなるとまた別だ。
 それを維持する為には多くの水の精霊を呼ばなければいけない事になる。
 けれどそうなればこの周辺の精霊達のバランスは崩れ、しばらくは雨がひどく降る場所、全く降らない場所が出るなどの二次被害がきっと起こる。

 アーシャは迷っていた。
 この文字を、書き写して戻るだけでは駄目だろうかと。
 恐らく少女以外の仲間達はこれを読めないに違いない。
 もし読めたとしても、写しでは課題の達成は半分だ、と言う事は言わなければわからないだろう。
 ならば何食わぬ顔をして、課題はクリアした、と皆にそれを見せてそのまま森を出ればいい。
 この課題を本当にクリアした者は少ないというグリフォンの言葉もある。
 それならば、多分ここまで来ただけでも高得点はにはなるはずだ。
 三学年なら尚の事、文字を写して帰っただけでもきっとSランクが貰えるに違いないと思う。
 それなら、シャルとジェイの目的は達成されるのだ。
 誰も傷つかないし、これ以上楽な道はない。

『また、言わないまま済ませるのか』

 アーシャの胸の奥にここにはいない彼の声が響いた。
 だって、その方が良い事だってきっとある、と少女は胸の内でその声に言い訳をする。

『私達は信用できなかったか』

 だって、この短時間でシャルが自分自身に打ち勝つ事ができるとは思えない。  
 小さい頃に火を受け入れるのをやめたのだとしたら、きっとその根は深いところにある。
 それを克服できるかどうかは、危険な賭けだ。

 アーシャはぎゅっ、と目の前の羽を掴んでしがみついた。
 暖かい。生き物の暖かさを久しぶりに感じた、とアーシャは思った。
 どうして他の命はこんなに暖かいのだろう。自分一人の時は、命が暖かいなんてそんな事忘れているのに。
 ずっと忘れて、生きてきたのに。

『どうした』
『……このまま、帰ってしまえばこれ以上誰も大変な思いしなくて済む。それが一番いいって思う。でも』
『でも?』
『そうしたら……私、もう皆と一緒に居られない気がする。自分が、きっと嫌だ』
 グリフォンは面白そうに首を回して自分の背でうずくまる少女を見た。
『一緒に居たいのか』
『……居たい、と思う』
 皆と居たい。それが、アーシャの答えだった。
 気づいてしまえばあまりにも簡単な事だ。
 だって、とアーシャは自分の胸の内で呟く。

 だって、シャルの歌はあんなに暖かかった。
 ジェイの笑顔はあんなに明るかった。
 ディーンの料理はとても美味しかった。
 自分の作った物を喜び、お礼を言ってくれた。
 色んな話をしたり、一緒に魚を獲ったり、アーシャを怒ったりしてくれた。
 彼らはとても面白い。
 だから、一人の森はつまらなかった。
 自分の味方のはずの森の中を歩きながら、ずっと心細いようなおかしな気持ちだった。

 あの心細いような気持ちを寂しいと言うのだと、ようやくアーシャは思い出した。
 この森を出て、旅が終わって、学園に帰っても、アーシャはまた皆に会いたいと思うだろう。
 でも、もし皆に黙ってこの課題をこのまま終わらせたなら、きっともう真っ直ぐに彼らの顔を見られない。
『どうしよう……私、もうわかんないよ』
『ならば、信じてみると良い。仲間がどういう結論を出すのか。聞かずに悩むのは早いのではないかな?』
 泣き出しそうな細い声にグリフォンは優しく言った。
 もはや自分をも恐れぬ豪胆な少女が、人の抱く当たり前の恐れを得て自分の背で震えている。
 人らしいその姿が、彼には不思議と愛しかった。
『皆で我に会いに来てくれればうれしいものだ』
『……うん』
 アーシャは小さく頷いた。
 信じるのは怖い、と思う。
 けれど彼の言う通り、その道を探してみようかと考えた。
 アーシャはもう一度頷くと顔を上げた。
 その刹那――

『 ――! 』

 キィン、と高い耳鳴りがアーシャの耳を打った。
 思わず耳を手で押さえると、グリフォンもぐるる、と苦しげな声を上げた。
『何だ!?』
『森が何かを――』
 直後、ドォン、と大きな音が森を揺らした。
 アーシャはハッと空を見上げた。まばゆい光が青空に上る。
 シャルの炎か、と焦ったがそれは火ではなかった。
 空を切り裂くように、一本の光の柱が森の向こうから上がっている。
 光はしばらく天へと向かって立ち上った後、周囲に大きく広がり、そして唐突にふっとかき消えた。
 それが炎でなかったことにアーシャは胸を撫で下ろしたが、まだ安心するの早い、と思いなおす。

『何かあったんだ……行かなきゃ!』
 アーシャは慌ててグリフォンの背から滑り降りると、その脇に置いてあった荷物を背負った。
『ありがとう、西風の王。また来るね。今度は、多分皆で』
 それだけ言ってアーシャは駆け出した。
『待て』
 その白いマントの端をぐい、と大きな嘴が摘んだ。
 小さな体はそのまま宙吊りにされる。
「ひゃっ」
 グリフォンはアーシャを軽々と持ち上げ、そのままひょい、とまた己の背中へと戻した。
『そなたの足でも時間がかかるだろう。送ってやるからしっかり掴っていろ』
 バサ、と力強く白い翼が羽ばたく。
 巻き起こる風に飛ばされないよう、振り落とされないようアーシャは必死で彼の背中にしがみついた。
 彼に運んでもらえるならあっという間だろうが、流石にちょっと恐ろしい。
『西風の王とは、嬉しい事を言ってくれる』
 そう言って笑うとグリフォンはバサリ、と大きく羽ばたいて飛び立った。
 空があっという間に近くなる。
 けれどその青い空も、今のアーシャの目には映っていなかった。
 眼下の森には奇妙な静寂が広がっていた。
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