1:それぞれの現在


 夢を見ていた。
 懐かしい、幸せだった頃の夢だ。
 眠りの中で帰る故郷と呼べる場所は変わらず美しく、アーシャ、と自分を呼ぶ声は優しかった。
 眠りの中でだけ彼に会うことが出来る。
 自分に名をくれた優しい存在。
 名を呼ばれる度に、暖かいような切ないような気持ちになる。
 過去を辿る夢は今も鮮明で、頭を撫でてくれる優しい手の感触に夢の中なのにいつも涙が出そうになる。
 今の自分を取り巻く退屈な日常の中で、眠りにつき夢を見る事と、本を読む事だけがささやかな楽しみだ。
 世界を見なさい、と言われて遠くまで来たのにそれはまだ叶わなかった。
「……アーシリア」
 だからそれが叶う日、つまりこの学園を出て行くその日までこの退屈な時間と付き合うために、彼女は今日も眠って夢の訪れを待つ。
「アーシリア! アーシリア・グラウル! 起きなさい!」
 自分の授業を眠って受ける事に腹を立てている教師がいても気にはならない。
 どうせいつも根負けして諦めるのは教師の方なのだ。
 今の彼女に聞こえるのは、夢の中から自分の名を間違えずに呼ぶ声と、風の精霊が彼女のために歌う子守唄だけだった。





「なんでよ!」
 昼休みの教室ののどかな空気を破るように高い声が響き渡った。
 のんびりと談笑していた何人かの生徒が何事かと声のした方へ目を向ける。
 しかし声を発した本人を確認すると皆一様に、またかという顔をしてそっと顔を背けた。
 声を上げているのは、背まで届く艶やかな赤みの強い茶色の髪を揺らし、琥珀の色の目を怒ったように吊り上げた少女だ。
 そんな表情をしていなければ美少女の部類に分けられるような華やかな顔は憤りを表すかのように朱に染まっていた。

「なんでだめなのよ! 友達でしょ? 一緒に行ってよ!」
「そんなこと言ったって……絶対無理だよ、シャル」
 シャルと呼ばれた少女と向かい合うもう一人の少女は小さな声で必死で答える。
 その様はいかにも気弱そうで、彼女の剣幕に今にも逃げ出したいと言う顔だった。
「ね、お願い! 一緒に行ってくれるだけでもいいのよ!」
 シャルことシャルフィーナ・ラド・ブランディア嬢は目の前の友人を説得しようと必死だった。
 ここで彼女を説得できなければ後がないのだ。
「そんな事言ったって、あたし達まだ三年なんだよ? なのに《森》なんて絶対無理だよ……。
 あたしなんかまだ使える魔法は五級ばっかりだし……」
「大丈夫よ! 武術学部からちょっと使えるの連れて行けば何とかなるって! 当てはあるのよ。
 そいつらが盾になってるうちに私がババーンとやっちゃうから! メイは補助系魔法とか得意じゃない、そういうのしてくれればいいから!」
 シャルはなおも言い募った。自分に絶対の自信がなければ出てこないようなセリフを平然と言ってのける。
 しかしメイと呼ばれた少女は怯えながらも首を縦には振らなかった。
 シャルの剣幕も恐ろしいが、《森》と呼ばれる場所へ行くのはもっと恐ろしいのだ。
「無理だよ! もうお願いだから他の人を当たって……。単なる人数合わせなら私じゃなくてもいいじゃない?」
「そ、それは……」

 真理だった。
 これにはさすがのシャルもぐっと黙ってしまう他ない。
 友人を人数合わせ扱いしたつもりはないが、誰でもいいから友人達から一人来てくれればいいと思っていたのは確かなのだ。
 しかも彼女はシャルが声をかけた友人達の中の最後の一人だ。そう思われても仕方ない。
「に、人数合わせだなんてそんなつもりないわよ! ただ、一緒の班になって欲しいと思って……」
「シャルがどんなつもりでも、私にはあの森は無理なレベルだってわかってるはずよ。
 先生達も自分に合ったレベルの班を作ってそれに見合った課題を選べって言ってたし。無理な課題を選んで失敗してペナルティを受けるのは嫌よ……」
 確かに教師はそう言っていた。シャルもそれはもちろん覚えている。
 けれど彼女には、ハイわかりましたといって諦める訳に行かない事情がある。
 その事情のために、この三日間次から次へと友人を拝み倒しては無理な課題に一緒にチャレンジしてくれる人を探し続けているのだ。
「とにかく、私はもうニーナと何人かで始まりの迷宮の一層か二層にしようって話してるの。
 悪いけど……一緒に行けないわ」
 始まりの迷宮はこの学園の地下に広がる初心者向けの迷宮だ。
 学園が作っているだけあって、バランスの取れた課題が随所に散らばっているという。
 シャルと同じ学年の生徒のほとんどがここへ向かうはずだった。
「……わかったわ。ごめんね、無理言って」
「いいのよ、わたしこそごめんね。シャルも無理しないでね」
 そういってメイは教室の外に去っていった。
 次の授業の教室に移動したのだろう。
 いつの間にか教室には誰もいなかった。次の授業は選択科目でこの教室は使われない。
 シャルもそろそろ移動をしなければいけない時間だった。
 のろのろと教科書をまとめ歩き出したものの、足取りは重い。
 これでシャルが当たった友人は全滅だ。
 もはや友人というほどでもないクラスメイト達を当たらねばならないが、友人達でも無理だった事に良い返事が期待できるとは思えない。
 メイは自信がないといっていたが、彼女だって他の友人達だって、同じ学年では成績優秀な子ばかりなのだ。

 《森》の課題に挑戦するには、最低でも武術学部から二人、魔法学部から二人の四人以上の班を組む事が条件にされている。
 武術学部の方は何とかなる。同じく引けない事情を抱えた幼馴染が居るからだ。
 お互い仲間を見つける事で合意している。
 ……だがシャルは見つけられなかった。
 三人あるいは最悪彼女と幼馴染の二人の班しか組めないならば学校側からはどうあっても課題を変更しろと言われるだろう。
 班の登録は明日の夕刻が期限だ。
 ポツ、と小さな音がして窓の外に目を向けると何時の間にか空が曇り雨が降り始めていた。
 灰色の空は自分の未来を暗示しているように見え、シャルはまた一つ似あわないため息を吐いた。

 けれどふと遠くに視線を向ければ雲の切れ間が見える。切れ間の向こうはほのかに明るく、どうやら通り雨のようだ。それを見た彼女の心もまた少しだけ明るくなった。
 そうだ、まだ希望が消えた訳ではない。まだ、期限はある。
「よし!」
 自分に言い聞かせるように気合を入れると、少女は赤いローブを翻し、次の教室に向かって軽やかに走り出した。





「頼む」

 真剣な声が学園の男子寮の静かな室内に響く。
 午後の光が差し込む明るい部屋で、二人の少年が向かい合っていた。
 一人はこれ以上ないほど頭を下げ、もう一人は椅子に座ったまま手に持った紙切れををじっと見つめていた。

 窓から入る西日が頭を下げた少年の短い髪を明るく照らす。軽く癖が付いた金の髪は夕暮れの光でもはっとするほど鮮やかな色だった。
 もう一人、紙に眼を走らせる少年は日が当たってもなお夜のように黒い髪をしていた。藍色がかった黒の瞳が手にした紙の上を滑る。
 やがて紙の内容を読み終えたらしい彼はすっと顔を上げて目の前でまだ頭を下げ続けている友人を見やった。
「西のジェムール伯爵の娘……確かもういい歳ではなかったか」
「……ブスの面食いで行き遅れだって評判さ。けど金と領地はたっぷりある上に一人娘なんだそうだ」
 なるほど、と黒髪の少年は小さく呟くとその手紙を折りたたみ脇の机の上に差し出した。
 まだ頭を上げない少年の方はもうため息しか出てこない。
「義務を果たすか、あるいは…か。苦労するな、ジェイ」
「なぁ、頼むよディーン。お前が協力してくれりゃきっと何とかなると思うんだ」
 もはや残された選択肢は多くない。
 そして時間も少ないのだ。
「協力するのはかまわない」
 ディーンと呼ばれた少年の答えに金色の頭がぱっと跳ね上がった。
 期待に輝く薄い青の瞳と人好きのする鮮やかな笑顔が明るい容貌を更に輝かせる。
 ディーンはその様子に軽く苦笑を浮かべた。

 ここ数日ジェイが何か言おうとしては何度も躊躇するのをディーンは感じていた。
 恐らくはこの話題のことなのだろうと、ジェイの方から言い出すまではあえて追求せずに居たがどうやら断られる事をよほど心配していたらしい。
 どのみち、彼が何か言い出すまでは、と自分の課題の登録はしないでおいてあったのだ。
「ホントか!?」
「ああ、あの森なら課題以外でも実入りもいいだろうしな。だが、私達だけでは駄目だろう?」
「うん……どうしたって、魔法学部生の協力がいるよな。けど、一人はあてがあるんだよ。
あいつも俺と同じ状況なんだ」
「……まぁ彼女なら大丈夫だろうな」
 二人は赤茶色の髪の勝気な少女を脳裏に描く。
 基礎学部を共に過ごした彼女の魔法の能力の高さは疑うべくもない。
 同学年では一番だと言う話も武術学部まで届いている。
「だが、もう一人はどうする?」
「お互い一人ずつ捕まえてくるっていう話になってんだけど……心配なんだよな、あいつ友達少なそうだし……」
 確かに、という言葉をディーンは口には出さなかった。
 彼女と幼馴染である友人に遠慮したのだが、友人の方は特に遠慮など考えては居なかったらしい。
「あいつあの性格だからなぁ。性格の良い友達は多少いるみたいなんだけど、とにかく大人しいのが多いんだよな。気の強い奴はぶつかるからさ、あいつと一緒に居てずっと我慢できる奴ってあんまいないよな」
 見た感じが性格ブスだからな、などと本人が聞いたら烈火のごとく怒るに違いない言葉で彼女を表現するジェイはその一緒にいて我慢できるという希少な該当者の一人だった。
 単に祖母同士が友人で乳幼児の頃からの付き合いだから諦めているとも言える。

「だが、それなら難航していそうだな」
「多分な。取り巻き連中もさすがにあの課題は嫌がるだろうし……。
 まぁ、今日これから寮の食堂で会うことになってるからその時わかるだろ。付き合ってくれよ」
「……仕方ないな」
 二人は頷いて立ち上がった。
 ジェイは忌々しそうに手紙を摘んでズボンのポケットにおざなりに入れると、既に歩き出しているディーンの後を追ってドアを目指した。
 ドアの向こうに続く寮の廊下は人気もなく静まり返っている。
 バタン、と背後で閉めた扉の音が、ジェイにはまるで自分達の未来を閉ざす音のように聞こえた。
行かなければ、と焦燥が胸を満たす。
 
 本当に未来を閉ざされない為に。自由を手に入れるために。
 行って、この才能を示すのだ。

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